ミマキイリヒコ(崇神)天皇の祭祀(続編)

こんにちは!今日は前回の続き、ミマキイリヒコ(崇神)天皇の祭祀の続編をご紹介します。

前回は、神代の偉大な神霊ヤマトモモソヒメに神がかりして、サツサツヅウタを賜ったところで終わりました。

結構、大胆なウタでもありましたが、何と言ってもミマキイリヒコ天皇は時のスヘラギ

そんなお方に核心を突いたウタを詠んだ方とは一体誰なのでしょうか?

そしてそのウタの真意とは?早速見ていきたいと思います。

ホツマツタヱ33アヤ18~21頁
神が答える。「私は国つ神のオホモノヌシです」
これを聞いた君は、驚きかつ畏れた。神代のオホモノヌシが、目の前に現れたのだ。
驚き畏れたのは当然である。


このように神の正体がわかったので、一層、身を正し政治に励んだ。
だが、世の中はうまく治まらず何の効果も現れなかった。


そこで君は心をこめて禊を行い、心身ともに清らかになって、祈り訴える。
「私がこのように真剣に祈り、あなた様を敬っているのに、この思いは通じないのでございましょうか」


するとその夜、君の夢にオホモノヌシが訪れ次のように言う。
「君が国事を心痛され、身を正し、誠心誠意、誠を尽くしておいでのことはよくわかりました。」
君の熱いお心はよくわかりました。
今後、世の中は平静になるでしょう。
ですから決してお嘆きになることはありません。
私の子孫のオホタタネコに祭らせれば、遠い国に至るまで、平らかになるでしょう。

神代の神の正体

ここで、ヤマトモモソヒメに降りてこられた神がオホモノヌシだと分かりました。

オホモノヌシとは代々世襲されていた役職名であり、ここだけ読むと何代目オホモノヌシなのか分かりません。

先に正解を言ってしまうと、二代目オホモノヌシクシヒコさんのことです。(オホナムチさんの息子)

どうしてクシヒコさんがお出ましになられたのか?美鈴の個人的見解ですが、国を思うお気持ちが人一倍強いからだと思います。

(クシヒコさんに直接お会いした美鈴は分かります)

というか、アマテルカミに対する忠誠心が今でも揺るがないのです。

クシヒコさん

サツサツヅウタの真意

ここで、クシヒコさんが詠まれたウタはミマキイリヒコ天皇を咎める意味ではなく、

世の中がうまく行かないのは、クシヒコさんご自身の問題であるというのです。

つまり『わが心あり』というのは『私の責任である』という意味だったのです。

クシヒコさんはとても謙虚な方で、人を咎める方ではありません。

あくまで世を正す責任は自分にあると仰っています。

どうしてオホモノヌシの問題なのか?

ではなぜ、クシヒコさんには世を正す責任があるのでしょうか?

松本善之助氏はここで、ホツマツタヱ23アヤ95頁に伏線があると述べていますので、早速見ていきたいと思います。

ホツマツタヱ23アヤ95頁
クシヒコはヤマト・ヤマベ(奈良県三輪神社付近)に殿をつくり、
世の行く先をじっと見つめている。

歳既に十二万八千年の際にあり、後の世を守るのは、

トヨケカミが建てた人倫と国を治める法則を守っていくことである。

それはすなわち、魂を込めて代々のスヘラギ(天皇)を守ることであり、
アメナルミチを全うすることである。

そして、ミモロノヤマ(三輪山)に洞を掘り、天のサカホコを携えて入り、
静かに時を待ちながら、一旦緩急あれば直ちに出動して力を振るう。

クシヒコさんの凄さを振り返る

このアヤを詠むと、クシヒコさんは寿命が尽きる際に洞穴に入り、(洞に入ってすぐに亡くなる訳ではないので)

国の大事があった際に、直ちに出動するという意味だと思っていました。

しかし、ご自身が息を引き取るまでの短期間ではなく、

肉体の寿命はとっくに尽きているのに、ミマキイリヒコ天皇の御治世や、今でさえお出ましになっているのです。

『アマテルカミが異次元ならば、クシヒコさんも異次元だった』

クシヒコさんの忠臣ぶりはこれだけにとどまりません。子孫のオホタタネコさんにご自身をお祭りさせ、

そのオホタタネコさんが書いたホツマツタヱを連綿とそのまた子孫に写本させていたのです。

古文献を保持する難しさ

美鈴も色んな神社の由緒を読み、数ある古文献が焼失した事実を目の当たりにしました。

それだけ、古文献を保持するのは難しいことを物語っています。

たとえ焼失しなくても、紙や布は虫食いや湿気で痛むため、こまめに写本しないと原本を保持できません。

そんな状態であるにも関わらず、クシヒコさんはご自身の子孫に働きかけて、ホツマツタヱを連綿と写本させておられた。

そして、子孫も写本の手を緩めなかった。つまり、

さいごに

今回は、ミマキイリヒコ天皇の祭祀を読みながら、アメナルミチについて理解を深めていきました。

ここで重要な振り返りをするならば、やはりクシヒコさんの『自分に責任がある』という姿勢ではないかと思います。

(ホツマツタヱのエピソードには、先人の知恵や教訓が含まれています)

クシヒコさんは為政者というお立場でしたが、この内容は一般人の美鈴にも『はっとさせられる』内容でもありました。

なにか災難(特に理不尽な出来事)が起きた際に、原因を外的要因に求めてしまうことがあります。

けれど、よくよく振り返ってみるとやはり自分にも非があったと思うことが多々あります。

そこでまた謙虚になって、次はこう改善しよう、失敗を糧に次に生かそうと謙虚に思えてきます。

クシヒコさんの大切な姿勢を教えてくれる、とても重要なアヤであると思いました。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:秘められた日本古代史ホツマツタヘ/松本善之助氏著

ミマキイリヒコ(崇神)天皇の祭祀

こんにちは!今回は以前にご登場いただいたミマキイリヒコ(崇神)天皇の祭祀について書きたいと思います。

崇神天皇ヒトノヨ第十代スヘラギで、イミナをヰソニヱといいます。

ミマキイリヒコ天皇の御治世に大規模な疫病が発生し、天皇はこの非常事態を真摯に受け止め、熱心に神祀りするというくだりです。

ホツマツタヱの中でも、神代の偉大なカミが登場するとても重要なエピソードになります。

それでは、いつものように松本善之助氏著書から書き下し文を見ていきましょう。

ホツマツタヱ33アヤ15~18頁
崇神天皇七年二月三日に次のような勅が出された。
「私の皇祖の開かれた基礎はしっかりしていて、揺るぎないばかりか、
今後の繁栄も相違ないものである。
それが、私の世になってからうまくいかないのは、真剣に皇祖の御心を体して
いないからではあるまいか。
きっとその咎めを受けているからに違いない。
慎んで原因を究明し、進むべき道を発見しなければならない。

そこで、朝日の原(京都府:式内比沼麻奈為神社付近)に
トヨウケノ神即ち五代タカミムスビの神に詣で、
八百万の神をお招きして丁重なお祭りをした。

一方、七代オホヤマト・フトニのスヘラギ(孝霊天皇)の皇女ヤマトモモソ姫(当時九十八歳)に、
何という神か分からないが、神がかりして、次のような神歌(サツサツヅ歌)を賜った。
ツヅウタ=連歌
君が問う「このように教えるのは、誰神なのでありましょうか」神が答える。

ツヅウタとは?

さて、ここでとある神霊がヤマトモモソヒメに降りてきて、ツヅウタを詠みます。

ヲシテ文中に出てくるツヅウタとは、連歌の古形で五七七(19音)のウタを連ねたものです。

このウタ場合は、サルタミモ(五)ツヅニマツラデ(七)ヲヱニミダルサ(七)で合計19音となっています。

アマテルカミサツサツヅウタが原初で、連歌既にカミヨの時代に用いられていました。

池田満氏の『ホツマ辞典』に詳細が書かれていますので、ご興味ある方は是非お読みください。

崇神天皇の謙虚な姿勢

ここまで読んで振り返ってみたいと思います。

ヰソニヱのキミ

この非常事態に対して、崇神天皇自らのご自身の行いを省みて、身を正す姿勢が本当に素晴らしいと思いました。

人のせいにせず、自らの行いが問題であると認めるのは、なかなか出来ないことであると思います。

ひとえにミマキイリヒコ天皇が謙虚なお人柄であったからだと思います。

さて、そんなキミの目の前に現れた神とは一体誰なのでしょうか?

続きは次回ご紹介したいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

石楯尾神社 謎の御祭神の正体は?(続) 神奈川県相模原市

こんにちは!前回ご紹介した、石楯尾神社におられる御祭神をご紹介します。

まさかの御祭神は、、、

トコヨクニ建国の父:クニトコタチ

そうなのです。この神社におられる方はクニトコタチなのです。

トコヨクニ創始者:クニトコタチ

クニトコタチトコヨクニ(旧:日本の国号)の創始者であり、トノヲシテ(恵民立国の理念)を掲げ、木の実の栽培法、住居の建て方、暦を制定し、人々の生活を豊かにされた方です。

トノヲシテが不変の理念であるのは、時代を経ても国家再建の礎とされたことから推察できます。

国が乱れた際に、古代の指導者はこのトノヲシテに立ち返って国家再建を成し遂げてきました。

そして、トヨケカミアマテルカミ常に最高の敬意を抱いていたお方でもあり、このお二人が『クニトコタチ』になぞらえるのは最高のお褒めの言葉になります。

以上を踏まえた上で、早速参拝に伺います。

クニトコタチにご参拝

建物は古いものの、こちらの神社は非常に明るい雰囲気を放っています。

拝殿

拝殿前で祝詞を奏上して、トコヨクニ建国の感謝をお伝えすると、止めどなく涙が溢れてきてしまいました。

クニトコタチはとても暖かく、やさしく包み込む波動をお持ちの方でした。

ご自身の存在を表に出さない謙虚な方なので、お人柄まで感じ取るのは難しかったのですが、

外宮でトヨケカミにお会いした時と同じ感覚を覚えました。(容姿が似ているというより、お考えが相似しているという感じでした)

感激で胸が一杯になった美鈴は、何度も御礼をお伝えしてクニトコタチの御前を後にしました。

石楯尾神社のご神徳

石楯尾神社の由緒にご神徳が書かれていたのでご紹介します。

『人々に生命を授け、人々の一生を守り、更に死後までもお守りくださいます』との記載が目を引きました。

池田満氏の著書によると、ヒトはアメミヲヤ(絶対神)ワケミタマ(分身)を元として生まれると書かれています

補足:アメミヲヤ(大宇宙)からヒトの心の主体である『タマ』がクニタマ(地球)に下りてくるため、ヒトは小宇宙と考えられていた

つまりヒトアメミヲヤの分身なので、契約や願い事をすることに意味は生じないが、子を授かる祈りについては有効であったとのことです。

そして、「人々の一生を守り、更に死後までもお守りくださいます」というのはアマテルカミ(天照大神)お考えに酷似しています。

アマテルカミヒト生まれ変わりにおける幸せまでも強く意識された方でした。

宮司さんお手製のお社

さて、石楯尾神社の境内には沢山のお社があります。色んな場所から合祀されたようですが、お社は宮司さんのお手製だそうです。

「昔から鎮座」と書かれています
御祭神愛の強い宮司さんなのでしょう

異彩を放つ看板

さて、石楯尾神社の自信は看板にも表れていました。

普通、神社の看板には『各種、御祈祷承ります』など書かれていると思うのですが、

駐車場入り口に立つ看板

こちらの神社の看板には凄いことが書かれていました。『社務所に申込むと運命が開きはじまる』そうです。

そして、『健康になり、子宝もいただけて事業もうまく進んでいく』とあります。

す、、、凄い!ここまで言い切るにはやはり霊験あらたかな神社なのでしょう。

クニトコタチがおでましになる石楯尾神社に是非ご参拝ください!

最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:『ホツマツタヱを読み解く』/ホツマ辞典 池田満氏著

石楯尾神社 謎の御祭神の正体は? 神奈川県相模原市

こんにちは!今日は神奈川県相模原市に鎮座する延喜式内社石楯尾神社をクローズアップしたいと思います。

神奈川県の延喜式内社を見ていて気になりました。とにかく論社が多いという点も目を引きます。

論社とは:延喜式に記載された神社と同一もしくは後裔と推定される神社のこと。

論社が多い明確な理由は分かりませんが、恐らく①霊験あらたかであった古くから信仰を集めていた

こんなところではないでしょうか?

石楯尾神社 社殿

神奈川県神社庁のホームページを見ると、現社殿は享保9年(西暦:1724年)に創建されたそうです。

神社庁のHP掲載の写真を見ると「この神社におでましになる方は相当時代が古い方だなぁ」と分かります。

となると『十中八九あのお方か、あのお方としか考えられない』、、、でもまさか、、、

確証が欲しい美鈴は先日もご紹介した深見神社タケミカツチさんに聞いてみました。

カシマカミことタケミカツチさん

『カシマカミは石楯尾神社はご存じですか?あそこにおられる方はどなたなのでしょう?』と尋ねると、

カシマカミは笑って『行ってみるがよい』(行けば分かるみたいな感じでした)とおっしゃったのです。

うーん、カシマカミが勧めるくらいだから、やはりそれなりの方なのでしょうね。

石楯尾神社の御祭神

神社庁のホームページから御祭神を見てみると、層々たる方々がお祀りされています。

石楯尾大神
産土神
伊邪那基幹神
天御中主神(高皇産霊神・神皇産霊神)
天常立神
国常立神
天照座皇大神
大歳神
猿田彦神
菊理姫神(幽産土神=速玉男神 事解男神)
事代主神
日本武尊

守良親王(亀山天皇の皇子)他

美鈴が『この方ではないか』と思った方も案の定名を連ねています。

石楯尾神社の由緒

さらなる確信を深めるために、今度は由緒を読んでみます。

古記録は焼失したそうですが、宮司さんが神社昇格願・明細帳訂正願等を調べて、正論の証明を発見したそうです。

神社の由緒では『人の生命のもと水穂の気が、地球の中心から出る産土地である神籬磐境の土地として神様がお定めになった所』とあります。

神社庁のHPでは『創建は今より二千年以上前(中略)古代人が神を斎き祀った所・斎庭として人々の崇敬の中心となり(中略)、高位の神々様が数多くお鎮り遊ばされて居り』(以下略)との記載。

手水舎に書かれていた由緒

ここを読んで『やはりあのお方だ』という確信を強めました。

そこで、上古代に詳しい眷属の方に尋ねると、やはりここにお出ましになるのは『あのお方』なのだそうです。

ようやく参拝へ

石楯尾神社が気になってはいたものの、実際に参拝したのは約1年後のことでした。

こちらの神社は神奈川県と山梨県の県境に位置しています。最寄駅から徒歩30分近くあるため、車での参拝がおすすめです。

アウトドアが楽しめそうな場所にあります

年代を感じさせる社殿

神社庁の写真で見た通り、かなり古い建物でしたが、とても明るい神社です。

ここに本当にあのお方が?

さて、謎の御祭神の正体は次回ご紹介したいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

カシマカミとの出会い 深見神社 神奈川県大和市

こんにちは!今日は神奈川県大和市に鎮座する延喜式内社深見神社をご紹介します。

神奈川県の延喜式内社一覧を見て気になったので、参拝に伺うことにしました。

深見神社 鳥居

こちらの神社は少し不思議な作りになっていて、本殿右側からの鳥居から入るようになっています。

御祭神闇龗神(クラオカミ)、武甕槌神(タケミカツチ)、建御名方神(タケミナカタ)とあります。

深見神社に参拝した当初は既にホツマツタヱを読んでいたので、

タケミカツチさんタケミナカタさんかぁ。すごい組み合わせだな』思ってしまいました。

補足:タケミカツチさんはオホナムチさんの国譲りの際に、朝廷軍の副長官として最後まで抵抗したタケミナカタさんを制圧します。(タケミナカタさんはオホナムチさんの息子)

美鈴がこちらの神社でお会いしたのは、カシマカミことタケミカツチさんです。(カシマカミのことはブログに書きますねと言っておきながら、1年以上経過してしまい、申し訳ない限りである)

カシマカミことタケミカツチさん

武術の達人:タケミカツチさん

タケミカツチさん第九代アマカミオシホミミ様左の臣として仕え、武術に秀でていたため、アマテルカミよりカフツツツルギカナテの称号を賜ります。

そもそも、タケミカツチさんのお名前は『武術によって雷(イカツチ)をも拉(ひし)ぐ』という意味があります。

また、カナメイシを据えて、地震を沈めた功績によりアマテルカミよりイシツツツルギを賜ります。

ハタレの乱の平定に尽力し、出雲の国譲りの活躍により、オシホミミ様よりカシマカミの称号が授与されます。

鹿島神宮に現存するカナメイシ

藤原氏の先祖

タケミカツチさんは親族の中でもひときわ優秀だったアマノコヤネさんにご自身の娘ヒトリヒメを嫁がせます。

お二人の間に生まれたオシクモさんの子孫が後の藤原氏となるので、タケミカツチさん藤原氏の先祖でもあります。

(さらに上代はトヨケカミ、そしてクニトコタチに辿り着きます)

アマノコヤネさんの妻:ヒトリヒメ

タケミカツチさんの人柄

タケミカツチさんのことが分かったところで、早速ご挨拶に伺います。

毎回のことなのですが、どの神社でも御祭神からとても歓迎されます。

まず拝殿に着くと、突風というか、嵐の時に吹くような強い風がサーっと吹きます。

深見神社 拝殿

そして、歓迎を示す自然現象が起こります。

タケミカツチさんは目の前にリアルにお出ましになっています。

自己紹介をして、この国の発展にご尽力下さった御礼を伝えると、タケミカツチさんは『よく来た』とおっしゃって、サーっと祓って下さいました。

改めて、タケミカツチさんを見ると、

体が大きくて、がっしりした体格の持ち主で、見るからに強そうです。

タケミカツチさんに拉がれたスワノカミに思わず同情してしまった。それも遥か昔の話で、既にお二人は気にされていないご様子)

スワノカミ:タケミナカタさん

タケミカツチさんもとっても優しい方ですね。懐が深く、人格にも優れ、いかにも上古代の重鎮といった風情があります。

その後も度々、深見神社に足を運んだのですが、美鈴のブログを読んで参拝者が来てくださったようで、『愉快、愉快』とおっしゃって、

喜んでおられました。(神社を紹介してもらうのは、嬉しいようです)

ちなみに笑い方も豪快な方でした。(笑)

深見神社由緒

深見神社の由緒を見ると、『徳川時代に旗本であった坂本家が崇敬する鹿島神宮から御分霊をした』とあります。

タケミカツチさんは武道の達人でもあったので、武人や大名の崇敬を集めていたのでしょうね。

深見神社 拝殿

鹿島神宮にも参拝に行きたいですと言ったら、とても喜んでおられたので、機会があったらお伺いしようと思います。

武士の崇敬を集めた、上古代の偉大な重鎮はとても気さくで素敵な方でした。

深見神社に是非ご参拝ください。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:ホツマ辞典/池田満氏著