アマテルカミ横浜におでましに 神奈川県横浜市泉区 神明社

こんにちは!横浜市のとある神明社アマテルカミ(天照大神)がお出ましになっていると、

ある眷属の方に聞いたので、早速、横浜市泉区新橋町に鎮座する神明社に参拝に伺いました。

相鉄いずみ野線緑園都市駅から住宅街を抜けて、いくつもの坂をアップダウンして辿り着きました。

Google mapの到着地に着いてもお社が見つからないので、ぐるっと道路を周って細い路地を入った所にありました。

鳥居

地元の人から大切にお祀りされている神社といった感じで、地元の方の気遣いなのか境内に小さなベンチが置かれていました。

境内に由緒が書きがありました。

ということで、主祭神は国常立神天照大神の二柱となっています。

神明社なのに国常立神?と思われるかもしれませんが、

全国的に国常立神がお祀りされるようになった経緯は過去に3段階くらいに分けてあったそうです。

(ここから少し余談になります)

段階時代国常立神の位置づけ
伊勢神道の流入
(度会氏により大成)
12~14世紀、特に13世紀根源神・天地開闢の神として位置づける
妙見信仰の影響中世~近世(12~17世紀以降)星辰・宇宙・根源神的な信仰と重なる
御嶽信仰江戸後期、1785年~国常立大神として山岳信仰・御嶽講に広がる
御嶽大神として(国常立尊・大己貴命・少彦名命)の組み合わせで祀る

こちらの神社の創建が1303年頃ということなので、伊勢神道の流れで国常立神がお祀りされたのかもしれませんね。

というのも、1312年頃の中世は武士や有力庶民を中心に伊勢神宮への参拝が徐々に広まった時代でもあります。(そのため各地に御厨がつくられた)

もしくは古くから国常立神を祀る信仰が残されていのかもしれませんが、いずれにせよ、クニトコタチの御神威が

本来の元に近づいたのは良かったと思います。

トコヨクニの創始者であられる

こちらの神社の由緒には、昔の春・秋の祭礼では、老若男女が川で禊(みそぎ)を行い

その後、社殿のそばにあった大きな桧の木を8回廻って心を鎮めてから祭事に奉仕したと伝えられています。

御神木の檜

現代のような屋根付きの手水舎が普及したのは江戸時代に入ってからですが、

このような、本格的なは中世の中臣祓(なかとみのはらえ)神道説内清浄・外清浄に似ているため、

やはり伊勢神道の影響を受けているような気がします。

アマテルカミにご参拝

大分話がそれてしまいましたが、神明社の参拝の続きです。

拝殿

早速、拝殿に向かいアマテルカミ(天照大神)に日頃の感謝をお伝えすると、

いつものようにお出ましになられました。

日々の生活の中で、色々と大変な出来事も多々あるのですが、

ここまで導かれているのは、ひとえにアマテルカミ御神威のお陰だと(美鈴が思っているので)

アマテルカミに御礼をお伝えすることが毎回、毎回増えてしまうのです。

いつものように深々と御礼をお伝えすると、いつものようににっこり微笑まれて、

サーっと祓っていただきました。

再度、深々とお辞儀をして、アマテルカミの御前を失礼したのでした。

この日お会いしたのはアマテルカミですが、クニトコタチもちゃんとお出ましになられるということです。

横浜市泉区新橋町の神明社 ― お近くにお住まいの方は是非ご参拝ください。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

オシホミミ様参拝記 群馬県昭和村 箱根神社 Vol.2

こんにちは、前回の続きでオシホミミ様(第九代アマカミ(天皇)であられる)参拝記の続編になります。

勾配が急な坂をアップダウンして、暫く道なりに歩いていくと、

道路の左側にお社が見えてきました。

どうやらこちらが箱根神社のようです。

鳥居の扁額も割れており、社殿はかなり老朽化が進んでいるように見えましたが、

それだけ長い年月、この地で守られてきた神社なのでしょう。

かなり古くなっているようですが、立派な狛犬が置かれてました。

早速、拝殿前に進んで丁寧に参拝し、「オシホミミ様おられますか」とそっと語り掛けると、

オシホミミ様はちゃんとお出ましになられました。

ああこの方こそ、箱根の大涌谷「私はここにいる」と美鈴にテレパシーを送って下さったお方なのだと痛感しました。

オシホミミ様はとても控えめで、あまり前面に出てこられない方でした。

オシホミミ様とスズカヒメ(タクハタチチヒメ)

とてもお優しく、ここまで来たことに対する感謝を示してくださったのです。

改めて、オシホミミ様にこの国の発展にご尽力いただいたことに改めて感謝をお伝えしました。

ただ微笑まれるだけで、何も語られないのですが、喜んでおられるようでした。

お妃のタクハタチチヒメとも、仲睦まじかったようです。(お二人ともニニキネ様のご両親であられる)

容姿のことを書くのは畏れ多く、憚られることですが、

あまり大柄なお方ではなく、アマテルカミにもムカツヒメにも、

どちらにも似ておられると思います。

改めて、オシホミミ様に御礼をお伝えして箱根神社を後にしたのでした。

オシホミミ様が送って下さった眷属の方に見守られて、

昭和村を後にしました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

オシホミミ様参拝記 群馬県昭和村 箱根神社 Vol.1

こんにちは、今日はオシホミミ様(第九代アマカミ)がお出ましになっている神社が群馬県にあるというので、

今回はその参拝記を書こうと思います。

参拝の途中で撮影した群馬県の綺麗な景色も併せてご紹介します。

昭和村から望む秀峰谷川岳

そもそも、関東でオシホミミ様にお会いできる神社があるかどうか眷属の方に聞いたところ、

こちらの神社を紹介して頂いたのです。

「箱根神社、、、、群馬県にですか?確かにオシホミミ様は箱根に入寂されましたが、

本当にこの神社なのですか?」と何度も眷属の方に聞いたのです。

すると、眷属の方が何回も「本当だ」と仰るので、

八重桜が見ごろの時期に、群馬県利根郡昭和村に鎮座する箱根神社に向かったのでした。

ちなみにこの昭和村日本で最も美しい村連合に加盟しており、

利根川とのどかな風景

加盟には自薦だけではだめらしく、一定の審査をクリアする必要があります。

また昭和村は有数なレタス産地だそうで、早朝収穫されたレタスはその日のうちに首都圏に出荷されるとのことです。

強い日差しと共に出たハロ

風はつめたいものの、日中は強い日差しの中、

起伏の激しい道を、上ったり下ったりしながら箱根神社まで歩きます。

のどかという言葉を画像にしたような風景

この箱根神社の正式な由緒は分からないのですが、

(江戸期に箱根権現信仰が流行ったため勧請されたなど諸説あり)

美鈴の推測では、こちらはかなり古層の神社なのではないでしょうか。

付近に岩下清水古墳群鏡石古墳(いずれも6世紀頃の遺跡)がありますし、

社殿やこちらの神社で伝統となっている太々神楽も後世に伝えられたとは思いますが、

川沿いは湧き水、禊、水の恵みから信仰の場となりやすい側面があります。

そして、オシホミミ様箱根に入寂されるまえはタカノコフ(多賀城付近)におられたので、

誰かがオシホミミ様を偲んでハコネカミをこの地に祭ったのかもと考えてしまうのです。

途中、クマバチ♂には熱烈に求愛され(クマバチ♂は動く存在を♀と勘違いして追う習性があります)

メマトイ(目の周りを追う小さな虫)には尾行されながら、ようやく神社にたどり着きました。

長くなりましたので、次回に続きます。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました!

官吏の悪をチェックする -ヨコベ・ツウヂの役割り-

こんにちは、今日は『官吏の悪をチェックするヨコベ・ツウヂの役割』というタイトルで、

上古代のアマカミの治世の内容が書かれた『ホツマツタヱ』を参照しながら纏めてみたいと思います。

ヨコベ・ツウヂとは?

ヨコベとは、現代で言うところの検察官に近く、各クニに10人程度任じられていました。

ツウヂとは、法律を専門とする役職で、後の直(アタイ)姓となります。

具体的には刑法の量刑を主務とするノリ(法律)の専門家ということになります。

ヨコベ・ツウヂは過去の記事でご紹介した、アマテルカミ(天照大神)玄孫(4世孫)

ウガヤフキアハセズ様の即位に出されたミコトノリの中に書かれています。

(訳)


錦の綾を織るように、ヨコベとツウヂもののタテ・ヨコを調べさせ、整えさせて、

闇路を照らすようにしなさい。

上古代におけるタテ・ヨコの概念

ホツマツタヱ本文にタテ・ヨコと書かれています。これは何を意味するのでしょうか?

ここでもう一度、タテ・ヨコの概念についておさらいします。

上古代の時代では、マツリゴトの良し悪しを機織りの原理に見立てていました。

織物はタテ糸ヨコ糸がバランスよく重ねることで、綺麗に布を織ることができます。

アマカミ(天皇)が人々に恵みを齎し、人々に教える流れがタテであり、

民衆の生活をヨコに見立てていました。

アマカミの教えと民の生活がバランスよく機能して国家がうまく収まると考えられていたためです。

しかし、ヨコ糸を強く引っ張ると、布が縮れてしまいます。

このことをヨコシマリ(良くない状態)と言い、(ヨコシマの語源もここから来ていると思われる)

これを正すためにヨコベ・ツウヂという役職が置かれていました。

ヨコベ・ツウヂの原理

では、具体的にヨコベ・ツウヂ原理について書かれた箇所をホツマツタヱ本文から引用します。

なお、素人の翻訳になりますので、必ずしも正確な訳ではない旨ご了承ください。

(訳)

民の夫婦一組を織物の筬に見立て、礼節を持つ長(取りまとめる人)を織り手に見立てると、

40人の村に村長を一人を置き、80の村ごとにアガタヌシを置き、モノノベとした。

80部の国ごとにツウヂを置き、モノノベがタテ(アマカミの教えと恵み)を人々に教える。

そして、クニツコ(地方長官)の下にヨコベを10人配置した。

もし、人々が道にそれる行いをした場合は、サガ臣(警察官)とツウヂ(=アタヒ、刑法を定める人)を経て、

上層部に到達させた。

上古代でも不正は取り締まられていた

第八代アマカミ(天皇)アマテルカミの時代は紀元前700~500年頃と推察されますが、

この時代でもきちんと官吏の不正が取り締まられていたことが分かる一節が

ホツマツタヱに書かれていました。

フトマニを見て、(罪の)裁量を知り、

ツウヂヨコベを遣わせた。もし、民が乱れるようなことがあれば、

その官吏者を交代させて、不正を正した。
もし、官吏者が驕り高ぶり、民が乱れるようなことがあれば、

その官吏者の罪が重くなり、ヨコベがその事態を改めて、

民を生かすように計らった。

美鈴の考察

ここに書かれているのは極めて重要な事であると思います。

上古代において、司法が機能していたということです。

仮に官吏者の不正があれば、民に影響を及ぼし、秩序が乱れます。

しかし、当事者間の解決は威圧や圧力、怠慢、「見て見ぬふり」等が起こりやすく、

問題が見過ごされてしまうケースも多々あったでしょう。

法の専門家のヨコベツウヂを置くことで、民を置き去りにせず、

問題ある官吏者を交代させて、組織全体の健全性を支える土台になったことでしょう。

これは現代においても極めて有効な問題解決の手段として考察できることは

強調したいと思います。

それでは、今日はここまでにしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

アマテルカミの治世 ~イセノミチ~

こんにちは、今日はアマテルカミの治世~イセノミチ~という題名で、

アマテルカミ(天照大神)の行った政策の一つイセノミチについて纏めてみたいと思います。

イセノミチとは、トツギノミチを源流として進化したミチであり、男女関係にとどまらず、

家族制度の規定も詳細に定められたミチのことです。

トツギノミチ ~一夫一妻制度のはじまり~

では、一夫一妻制度はいつ頃から始まったのでしょうか。

稲作が本格的に開始される前は郡婚時代とされ、特定の夫、妻を持たない時代でした。

稲作の本格的な開始に伴い、第四代アマカミウビチニ・スビチニ様

トツギの儀式を行ったことにより、全国的に一夫一妻制度が広がります。

稲作が本格的に開始された具体的な時代は不明ですが、縄文時代後期~晩期、または弥生時代初期とされています。

イセノミチの基本構造

イセノミチは男女を太陽と月に見立てた考えに基づいていました。

この構造を縄文時代当時の社会面でみると、太陽は外側を周るため、家の外の仕事を担当し、

月は内側を周るので、家の内の仕事を担うのが良しとされました。

家の中の仕事と言っても、家族の衣服をつくるにしても、当時は草木の繊維を煮さらして

糸を作り出していたため、大変な重労働でした。

余談ですが、約1万年前には、日本列島で植物の繊維を利用して衣服や袋などを作る技術がすでに存在していました。

福井県鳥浜貝塚で約1万~1万2千年頃の衣服の素材と考えられる繊維や編み物が発見されている)

ということは、アマテルカミの治世ではかなり織物技術も進んでいたことでしょう。

ここで大切なのが、男性は外の仕事、女性は内の仕事が中心ではあっても、

男女の性別の差はわずかであって本来ヒトとして生まれたものは同一という考え方でした。

これは『ホツマツタヱ』13-8アヤに該当箇所があります。

男も女も人としては本来同一であり、タマとシヰとの根本構造に変化はない。

ヒトとして形成される際にヲ(陽)がメ(陰)を先に包んだのか、メがヲを先に包んだのかの差によって

性別の変化が生じるだけのことである。

男も女もヒトはすべて、ひとりひとりが大宇宙の縮図としての小宇宙である。

イエ制度のはじまり

ホツマツタヱ13アヤイセノミチの詳細が書かれていますが、

戦前まで続いていたイエ制度は既に、アマテルカミ(天照大神)の時代から始まっていたようです。

概要だけ説明すると、

  • 当主の長男が後継となり、適任者がいない場合は弟が選ばれる
  • 見識の高い人物をナカハシ(仲人)とし、良い将来が期待できる女性をメアハセる。
  • 実家の実父母より、婚家の儀父母を大切に扱う。
  • 世継ぎ子を望めない場合は財産に応じて、メカケや養子を迎えることも良しとされた。

ここで、メカケを持つことにたいし、複雑に思われた方もおられるかもしれません。

これは、水田稲作が普及した当時において「家を存続させる」ことが、

人々の幸せにつながるという社会構造の中で生まれた制度でした。

また、朝廷が暦を提供する代わりにミツホ(租税)が献上され、それを基に国家運営を行っていたため

必然的な制度であったとも言えます。

現代においては、家よりも個人の意思や権利が尊重されるようになったため、

同じような制度は必要とされなくなりました。

イセノミチは時代と共に移り変わってゆくものでありましたが、

戦前までこのイエ制度が残っていた、そしてアマテルカミの治世から取り入れられていた

制度だったというのは注目されます。

そして、『男も女も性別の差はわずかなものであって、

ひとりひとりが大宇宙の縮図としての小宇宙である。』という考えは不変であり、

アマテルカミの治世当時の考えであったことも、強調しておきたいと思います。

それでは、今日はこの辺で終わりにしたいと思います。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

アマテルカミ(天照大神)東京の中心にお出ましに 東京都千代田区 東京大神宮

アマテルカミ(天照大神)が東京の中心にお出ましになっていると眷属の方に聞いたので、

早速、参拝に伺うことにしました。

JR飯田橋駅を降りて、ビル街を抜けていくと都心の一角に鳥居が見えてきました。

飯田橋は江戸城の外濠も近くにあり、歴史の面影を感じられる街です。

この神社にアマテルカミがお出ましになっているというのです。

鳥居

東京のお伊勢さま

東京大神宮といえば、東京のお伊勢さまで有名ですが、日本で初めて神前結婚式を執り行った神社だそうです。

案内板に由緒が書かれていました。

社殿は、切妻(屋根が三角形の形)・妻入り(建物の妻側を正面入り口とすること)の形式を取り入れています。

陽光を受けた社殿

また、拝殿には向拝(社殿の正面に突き出した屋根付きのひさし)があり、

より多くの参拝者が参拝しやすく、雨の日も参拝しやすい近代的な要素を取り入れた作りになっています。

アマテルカミ(天照大神)にご参拝

手水舎で手を清めて、早速拝殿に向かいました。

東京大神宮 拝殿

既に参拝者の方がおられたので、一番後ろに並んで待っていました。

美鈴の順番になり、前に進み出て静かに手を合わせてお祈りすると、

突然、拝殿前に誰もいなくなってしまいました。

すると、サーと拝殿奥から風が吹き抜けて、アマテルカミ(天照大神)が、

トヨケカミ(豊受大神)とご一緒にお出ましになられました。

正装でお出ましになられた

この国の発展にご尽力いただいた御礼と感謝をお伝えすると、

サーっと払ってくださいました。

いつものように、あまりにも勿体なく、畏れ多く、有難い気持ちになりました。

深々とお辞儀をしてその場を退出したのでした。

光溢れる境内

アマテルカミはとても祓う力が強いので、

境内の腰掛けで一休みしてから帰りました。

境内には綺麗なお花や樹木があり、都会のオアシスのような雰囲気でした。

アマテルカミとトヨケカミがお出ましになる東京大神宮、

お近くの方は是非お参りください。

最後までお読みいただきありがとうございました!

目黒の意外な名前の由来 東京都目黒区 大鳥神社

こんにちは!先日、池田満氏ヤマトタケさん(日本武尊)のお話を読んでいたら、

東京都目黒区現:大鳥神社の地にヲシロワケスヘラギ(景行天皇)が訪れたとありましたので、

行ってみることにしました。

景行天皇が東国に行幸された背景

次期スヘラギ(天皇)候補であった、ヤマトタケさん(日本武尊)は、

若くして早世されたので、ヲシロワケスヘラギ(景行天皇)は大変悲しみます。

しかし、ヤマトタケさんの意思を継いで、国書の編纂に取り掛かります。

完成したのが、『ホツマ ツタヱ』『ミカサ フミ』『カク ミハタ』です。

お若い頃のヲシロワケスヘラギ

国書を完成させた後、亡きヤマトタケさんを回顧して、東国への行幸に向かいます。

東国入りしたスヘラギを出迎えたのが、サクラネマシさんホツミテシさんでした。

このお二人は、ヤマトタケさんの妃:ヲトタチバナヒメの親族で、

お二人の住まいが今の目黒の地にあったそうです。

武蔵国と目黒の地名の由来

この多摩川の付近にトラカシワという方が住んでいました。

この方は、ヤマトタケさん御一行が多摩川に立ち寄られた際に、

誰かが落とした鐙(あぶみ:乗馬の際に足を乗せる馬具のことに、

カグの実をさして届けてくれた方です。

拾った鐙をただ届けるだけでなく、カグの実を生け花みたいに挿してくれた、

トラカシワさんの気遣いにヤマトタケさんはちゃんと答えます。

ヤマトタケさんは、ミサシ(実挿し)クニと名付けます。

鐙に飾ったカグの実

ミサシクニがのちに武蔵国(むさしこく)となったそうです。

そして、ヲシロワケスヘラギ行幸の際には、トラカシワさんは、

榊の枝から人形を作ってくれました。

黒い瞳が生き生きとして、ヤマトタケさんが生きているようだったので、

ホツミテシさんとサクラネマシさんの館をメクロ(目黒)の館と名付けたのでした。

さて、以上を踏まえて大鳥神社にご参拝に向かいます。

ヤマトタケさんにご参拝

御祭神日本武尊、弟橘媛、国常立尊と書かれています。

目黒ヤマトタケさん、ヲシロワケスヘラギ(景行天皇)お立ち寄りの地ですが、

今となっては大都会の一角を成す街となっています。

大鳥神社の鳥居

お正月の清々しい気で満ちた鳥居前にやってきました。

ヤマトタケさんは美鈴の参拝を待っておられたようで、

到着した途端、歓迎していただきました。

ヲトタチバナヒメもご一緒でした。とても美しい方でした。

ヲトタチバナヒメヤマトタケさんより一つ年上、ヤマトタケさんとの間に7人の御子をもうけられた)

ヤマトタケさんとヲトタチバナヒメ

お二人とも美鈴に話しかけることはありませんでしたが、とても歓迎してくださいました。

ヤマトタケさん寒田神社でお会いした時は、ちょっとお疲れに見えたのですが、

すっかりお元気なご様子でした。

(というか、お会いした時は時代的に大変でしたという感じでした)

ヤマトタケさんの切実な祈りは数多く建てられた社が物語っている気がします。

大鳥神社 拝殿

ホツマとは、『まことの中のまこと』という意味なのですが、

美鈴は『本物の中の本物』とも思っていて、

ヤマトタケさんもこのホツマに値する方と思っております。

御神木

ヤマトタケさんに再度お礼をお伝えして、大鳥神社を後にしたのでした。

余談ですが、トラカシワさんという方は多摩川沿いに住んでおられたそうで、

トラカシワさんの村をヤマトタケさんが『タマガワアブミ』と命名されたそうです。

そのタマガワアブミの地が現在の東京都調布市 虎柏神社付近とのことです。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

ヲシテ文献にみる自然界の5大基本要素

こんにちは!今日はヲシテ文献(漢字が導入される前に使われていた古代文字)で書かれた、

ホツマツタヱに出てくる、自然にまつわる言葉について書きたいと思います。

では、まずホツマツタヱ本文から見ていきたいと思います。

ホツマツタヱ 18-10

ホツマツタヱ 18-10

この文は、「ウツホ、カゼ、ホ、ミヅ、ハニがバランスよく混ざり

ミナカヌシ(=人類第一号)が発生した」と書かれています。

では、それぞれどういう意味なのでしょうか?以下の表にまとめたのでご覧ください。

ハニという言葉は、一見すると?と思ってしまいますが、

現代日本語では土が乾いていても、湿っていてもです。

なので、厳密に言うと土壌の固層でしょうか。

表の右側に書かれている「ヲ」「陽」「メ」「陰」を意味します。

ウツホ・ホ・カゼのは軽いが集まって「ヒ(太陽)」となり、

ミヅハニは重たいが集まって「ツキ(月)」となったと

(ミカサフミ120頁参照

この5大基本要素が大宇宙の生成に深く関わっていたとミカサフミに書かれています。

自然神として祀られたカミ

この5大要素を擬人化して、祀られたカミが存在します。

皆さんもご存じかと思いますが、

ミヅを擬人化したミヅハノメハニを擬人化したハニヤスメ

いずれもメ(陰)であるため、女性カミです。

丹生川上神社

ミヅハノメを祀る代表的な神社が奈良県吉野郡に鎮座する丹生川上神社であり、

主祭神罔象女神(ミヅハノメ)となっています。

ミズハノメ:あくまでイメージです

ヲシテ文字を漢字に当てはめるとどうなるか?

ホツマツタヱ関連著書の池田氏はヲシテ文献に出てくる言葉を漢字に当てはめるのは、

オリジナルの正しい意味から乖離してしまうと述べています。

例えば、ヲシテ文献に出てくる「ウツホ」「空」という漢字に当てはめてしまうと、

本来のウツホが持つ「気体」の意味が伝わらなくなります。

これは翻訳につきまとう問題です。

英語で説明するのが適切かは分かりませんが、

例えば「空」でも、インド哲学では「ether」仏教では「emptiness」にニュアンスが近く、

ウツホの「気体」=「gas」とは全く意味が異なってしまいます。

そもそも「地水火風空」五元素と呼ぶのは、

化学の元素を連想させるため、ちょっと違うのでは?

と思ってしまいます。

これは、明治時代インド・仏教五大(Five elements)

日本語で『五元素』と翻訳されたからです。

地水火風空「自然界の5大要素」

または「5つの物質的属性」と呼んだ方がしっくりきます。

このように、ドンピシャの訳語をあてるということは難しいものです。

日本語→外国語、外国語→日本語も然りです。

誤翻訳や誤解を避けるため、

美鈴も極力、ヲシテ文字で書かれた原本を読むようにしています。

最後はちょっと余談になってしまいましたが、

今日は、ヲシテ文献に見る、自然界の5大基本要素ということでお話しました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

アマテルカミの治世 ~罪の計量化~

こんにちは!今日はアマテルカミの治世 ~罪の計量化~というタイトルで、

アマテルカミ(天照大神)が行ったマツリゴトの改革のうち、罪人が犯した罪の計量化について説明します。

アマテルカミの治世には、水田稲作によって人々の生活は格段に豊かになったものの、

他人を妬む心やうらみが蔓延し、多くの諸問題が発生した時期でもありました。

そして、タミ(民)を教え導くトミ(臣)も驕りや傲慢さゆえに、

罪を犯し、ヲヲヤケ(朝廷)を蔑ろにする事態も発生していました。

罪の計量化の背景

それでは、具体的にどのようなトミ(臣)の横暴があったのでしょうか。見ていきたいと思います。

ネノクニ(今でいう北陸道)クニカミ(国司)カンミムスビ(トヨケカミの子)という方ががおられました。

そして、マスヒト(準国司)の役職には、イサナギ様の弟クラキネさんとその継子(つぎこ)シラヒト

という人物がついていました。

一方、サホコ(山陰道)には、コクミというシラヒトの仲間がいました。

この二人はアメナルミチに背くような悪だくみを行っていました。

そして、美女のサシミメという女性をクラキネさんの妾に送りこみ、そのかわりにコクミマスヒトに任命されます。

クラキネさんが亡くなると、今度はクラキネさんの子シラヒトが、

父の妾のサシミメさんに対して乱行し、その娘であり、妻でもあるクラコヒメをぞんざいに扱い、

挙句の果てに二人をコクミの元へ追いやってしまいます。

このような出来事もあり、アマテルカミ(天照大神)刑法における罪を計量化しました。

余談ですが、大祓詞の一節に出てくる天の益人とは恐らくシラヒトコクミのことを言っているのだと思います。

大祓詞の一部抜粋

罪の重さの尺度

それでは、具体的にアマテルカミ(天照大神)が定められた罪の重さの尺度をもとに、

シラヒト・コクミが犯した罪の重さを計量化すると、以下のようになります。

これを見るとシラヒト・コクミへの罪の計量は370クラになります。

そして、ヲヲヤケに対する信頼低下に対して、

極めて重い計量がなされていることは注目されます。

では、370クラとは具体的にどのような処罰となるのか?処罰の区分けを見ていきましょう。

これを見ると、死罪を賜ったということになります。

このシラヒトという人物はアマテルカミにとっても従兄弟にあたるので、

重苦の決断だったとは思いますが、シラヒトコクミが行った、

権力(チカラ)をみだりに貸与することは、朝廷を蔑ろにする行為であるため、

最も重い罪を課せられたのでした。

アマテルカミの治世当時に、

公正を旨とした、量刑法を施行したことは、画期的な刷新であったと思います。

今日は、アマテルカミ(天照大神)が行ったマツリゴトの改革のうち、

罪の計量化について焦点を当てました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

アマテルカミおでましに 神奈川県川崎市 琴平神社

こんにちは!眷属の方より、神奈川県川崎市麻生区に鎮座する琴平神社アマテルカミ(天照大神)がお出ましになっているという情報を聞いたので、早速行ってみることにしました。

小田急線柿生駅よりバスが出ています。早速、由緒を見てみます。

琴平神社 由緒

この由緒を見ると、琴平神社はもともと伊勢信仰として成立し、江戸後期金刀比羅信仰が重層化した神社であることが分かります。

実は、金毘羅信仰航海安全の神として、伊勢信仰と並ぶくらい江戸時代においてはブームだったのです。

その背景を纏めましたのでご覧ください。

金毘羅信仰が流行した背景

金刀比羅宮は庶民にとって開かれていたため、江戸期に爆発的に金毘羅信仰が広がったようです。

神明社の御祭神:天照大神と琴平社の御祭神:大物主神がお祀りされている神社になります。

オオモノヌシと言ったらクシヒコさんのことなのですが、

何とこちらの神社はアマテルカミクシヒコさんのお二人がお出ましになる神社だということです。

クシヒコさんアマテルカミ(天照大神)の外孫で三輪氏の祖)

クシヒコさん

早速、本殿に参拝に向かいました。

琴平神社本殿

本殿は大鳥居前の交差点を渡った、石段の上にありました。

石段の上が小高い丘になっていたので、こちらが由緒にあった伊勢山ではないかと思います。

ちなみに伊勢山とは、一生に一度行けるかいけないか分からないくらい、

遠い伊勢神宮を身近で参拝するために、

小高い山や丘に神明社を建てて、伊勢の神域を再現していた場所です。

そのため、各地に伊勢山が存在します。

早速、本殿の前で祝詞を奏上すると、

アマテルカミクシヒコさんのお二人がお出ましになられました。

いつものように感謝をお伝えすると、お二人ともにこにこ微笑んで、

サーっと祓ってくださいました。

お二人に御礼をお伝えして、今度は大鳥居のある儀式殿に向かいました。

琴平神社のここがすごかった

儀式殿に向かったのですが、この神社にはかなり驚きました。

まず、総社並みの鳥居の立派さ、

背後に龍雲出てました

人工芝の敷かれた手水舎は初めて見ました。

そして、2007年に放火により焼失した拝殿が2011年には修復されるという対応の早さ、

そして、総社並みの社殿の立派さに改めて驚きました。

さらにすごいのが、63枚の天井画がすべて焼失したとのことですが、

画家である宮司さんが、すべてご自身で復元されたそうです。

(社務所に問合わせると見学できるようです)

儀式殿の前で手を合わせてお祈りすると、

こちらでも、アマテルカミクシヒコさんはちゃんとおでましになられました。

こちらはクシヒコさんもお出ましになっておられるので、出雲大社と気の流れが似ています。

お社全体が参拝者に配慮された作りになっていたのも良かったです。

お近くの方は是非ご参拝ください!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!