伊勢神宮参拝記 番外編

こんにちは!今回は伊勢神宮本編で取り上げなかったエピソードをご紹介します。

伊勢神宮別宮 月夜見宮

伊勢神宮 外宮の火除橋を渡り、神路道路をまっすぐ進むと別宮の月夜見宮があります。ちなみに伊勢市中村町にも別宮の月読宮が鎮座しておりますが、そちらは時間の関係上参拝できませんでした。

皇大神宮別宮:月夜見宮

こちらの御祭神は月夜尊とあります。この方はホツマツタヱではツキヨミという方で、ヲヲンカミ(天照大神)弟君にあたる方です。

今の宮崎県宮崎市阿波岐原町産母付近でお生まれになりました。イミナはモチキネというお名前でした。

ツキヨミノミコト

兄のアマテルカミと共にヒタカミで勉学に励み、イヨツヒメを妃に迎えたためイヨ(伊予)の統治を任されます。

お二人の間に生まれたイフキヌシという方がハタレ乱の平定で大活躍をします。

ツキヨミさんの息子、優秀なイフキヌシさん

イフキヌシさんの功績は多数あるのですが、ハタレの乱で亡くなった多くの迷い魂をタカノミヤ(現:高野山)にて鎮めた功績からアマテルカミよりタカノカミの称え名を賜ります。

イフキヌシさん

ハタレを平定した後、悪行に染まっていない9万9千人は高野山に預けられ、その名を記したヲシテを高野山の玉川に埋めたとあります。

やがてタカノには化け物が横行したため、イフキヌシさんが宮を建てて迷える魂を鎮めたのです。

その由来から空海さんが後世、高野山に寺院を建立したそうです。

高野山(出典;Photo AC)

前置きが長くなりましたが、ツキヨミさんに参拝させて頂きました。

ツキヨミさんは祓詞にも出てくる阿波岐原のお生まれですし、伊予をおさめていたので、

西国に御縁があるせいか、お会いする機会がありませんでした。

月夜見宮

しかし、兄のアマテルカミに付き従ってヒタカミで勉学をされていますし、兄のアマテルカミ

ハラミノミヤにおられた時に兄に仕えていたので、関東に縁がないわけではありません。

早速祝詞を奏上してご挨拶をします。歓迎して下さったですが、はっきりとは繋がれませんでしたが、ツキヨミさんに愛と感謝をお伝えして参拝を終えました。

ツキヨミさんに縁の神社は伊予市上野に鎮座する伊予神社が居住地だったとされています。

外宮の授与品

外宮参拝時に授与所御朱印を頂いて、授与品を見ていたところ、素敵なお守りを見つけました。

開運鈴守という勾玉型のお守りです。私は勾玉の形がとても好きなので、安房神社でも勾玉形のお守りを購入しています。

このお守りをトヨケカミだと思って大事にしています。

写真をご覧いただくと分かるのですが、大きめの素敵な鈴が付いています。

開運鈴守

お守りのサイドに紫色の紐があしらっていて、とにかく素敵なんです!一目で気に入ってしまいました。

サイドの作りも凝っている

初穂料が1,000円なのですが、このお守りを作るのにもっとお金がかかっているのでは?と思うくらい素敵なお守りで大事にしています。

紫色の他にも白、オレンジ、ピンクがあります。

安房神社で購入した勾玉の根付

ちなみの安房神社金運お守りはとても有名らしく、購入している参拝者の方を見かけましたが、私は何故かこの勾玉のお守りが気になり愛用しています。

もう少し色々ご紹介したかったのですが、今日はこのあたりにしたいと思います。最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました!

ヲヲンカミとの出会い:伊勢神宮内宮

こんにちは!前回の伊勢神宮参拝記の続きです。外宮を参拝し、トヨケカミとの感動の出会いを果たしました。感動の余韻に浸りながらバスで伊勢神宮の内宮に向かいます。

台風も近づく中、雨が降ったり止んだりしていました。外宮では一旦晴れ間が見えましたが、内宮に向かう途中に小雨が降りだしました。

私は御祭神を描く際にしっとりとした雰囲気をだしたいので、月を背景に良く使うのですが、アマテルカミは太陽そのものという方です。

時刻はお昼近くでしたが、アマテルカミにお会いしたい気持ちが勝り、そのまま内宮に向かいます。平日にもかかわらず、多くの参拝者で賑わっていました。

内宮の鳥居の前

内宮の鳥居に着くと、途端にピカーっと日が差しました。眩しいくらいと輝いています。本当に太陽のような方だったんだなとしみじみ思いました。

出迎えてくださったヲヲンカミ

内宮に着くと、宇治橋鳥居をくぐり、宇治橋歩いて五十鈴川を渡ります。なんとアマテルカミはこちらで出迎えてくださったのです。

「どうしてこんなに喜んで下さるんだろう?」不思議に思いました。

五十鈴川の清流

以前にアマテルカミはとても謙虚な方だと書きました。本当に、本当に謙虚な方で、参拝者を入口まで出迎えてくださるのです。

ここでもホツマツタヱが真実だと実感してしまいます。本当に凄い方ですよね?

しかも宇治橋鳥居の手前にヤマトタケさんが来られたのです。凄い~。ヤマトタケさんはアマテルカミの子孫なので、何ら不思議なことはないのですが、御祭神の絆には本当に驚かされます。

私はこれまで数多くの神社に参拝しましたが、御祭神は本殿におられる場合もあるし、鳥居の手前で話しかけてくださる方もおられます。(恐らく御祭神の性格なのでしょう。)

アマテルカミはどんな方?

今回ははっきりとアマテルカミにお会い出来たのですが、アマテルカミを一言で言うならば「与える人」です。本当に愛の深い方なのです。また「喜びも悲しみも共に分かち合いたい」方でもあります。

こちらが愛を投げかけると、何倍も何十倍にも愛を返してくださる方なのです。

五十鈴川の水面にも太陽が写る

外宮でトヨケカミにもお会いしていますが、アマテルカミとは対照的な部分もあります。トヨケカミ「陰」であれば、アマテルカミ「陽」、トヨケカミは「静」ならばアマテルカミは「動」といった感じです。

とにかく私の訪問を喜んで下さったのです。

アマテルカミはお生まれになったときに「我はウヒルギである」と産湯につけたシラヤマ姫告げています。いときょう氏 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻参照

頭上にさんさんと輝く太陽から、改めてアマテルカミ太陽ミタマであると告げているかのようでした。

広々とした明るい庭園を歩いて、御正宮に向かいます。アマテルカミは途中まで一緒に歩いてくださったのですが、その後気配がなくなり、再度、風日祈宮橋でお会いできたので、橋のたもと、五十鈴川の流れが良く見える場所がお好きなようですね。

心が洗われるような五十鈴川の清流

長生きされたヲヲンカミ

アマテルカミはとても長生きされ、玄孫(孫の孫)ウガヤフキアエズ様の即位の際にもミコトノリを出されています。この時もまだ伊雑宮におられたようで、内宮の地に遷られたのは本当に最晩年だったようです。

内宮の鳥居

ウガヤフキアエズ様即位の際に出されたミコトノリのすべてを紹介すると長いので一部のみご紹介します。

民の声をよく聞いて、可愛いわが子の心を知る親のように、民の動きに敏感であって欲しいものです。この際にへりくだる心とやわらぎの心を失ってはなりません。凶暴なハタレにさえこの態度で接したのです。(途中略)温かい心で民を恵む気持ちを怠ってはなりません。秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱ 松本善之助著 より

松本氏の著書を読むと、アマテルカミは様々な文書(ヲシデ)を読んで、天の窮理を知ることが出来たとありますが、アマテルカミ愛情深い性格は生来もっておられた性質のように思います。

凶暴なハタレにですら、愛を持って接したとあるので、並大抵のことではないですよね?アマテルカミが京都の久治岳に入寂された時は、本当に世の中が真っ暗になってしまったように悲しい出来事だったのでしょう。

富士山麓に生えていたチヨミ草を常食されたため、長生きされたアマテルカミですが、チヨミ草は大変苦い草だったようです。そんな苦い草を食べ続けることだって常人には出来ないことですよね。

そんなアマテルカミに感謝と深い尊敬の念を抱いて、御正宮に向かいました。人の居ない参道で大祓の祝詞を奏上してからお参りさせて頂きました。アマテルカミは散策中なのか御正宮にはおられないようでした。

ヲヲンカミが共に歩いてくださったお庭

松本善之助氏は夢の中で、アマテルカミが老若男女、民、臣下問わず、人々に教え導く様子を夢で見たそうですが、本当にそうだったと思います。それだけ私たちと距離の近い方なのです。

これも伊勢神宮に対するステレオタイプを覆す出来事でした。伊勢神宮は特別な人しか参拝できない敷居の高い神社というイメージがあったのです。実際はアマテルカミの愛に触れられるとても温かい神社でした。

名残惜しい参拝

摂社末社を参拝し終えて、いよいよ帰ろうという時、ヲヲンカミが悲しまれておられるのか、途端に大粒の雨がザーザー降り出したのです。また参拝に伺おうと心に決め、アマテルカミにご挨拶をして内宮の地を後にしたのでした。

以上で内宮編はおしまいです。最後までお読みいただきありがとうございました!

人生を変える参拝:伊勢神宮 外宮

こんにちは!今回は伊勢神宮参拝記外宮編です。台風が近づく某日、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮に参拝しました。

伊勢神宮の外宮は豊受大神宮といいます。伊勢神宮は外宮から先に参拝することになっています。御祭神は豊受大神(ホツマツタヱではトヨケカミ)です。

トヨケカミ

背後についている方々も楽しみに

トヨケカミアマテルカミにお会いできるのをとても楽しみにしていましたが、どうやらそれは私だけではなかったようです。

出発の前日から当日にかけて背中がカーッと熱く、一日中汗ばんでいました。「今日ってそんなに暑かったっけ?」と夫に聞いたら、長袖を着込んだ夫が「いや、全然暑くないけど」と不思議そうに言いました。

どうやら、私の背後についている方々も伊勢行きを楽しみにされているようです。

外宮の最寄り駅は伊勢市駅宇治山田駅で、徒歩8分~10分前後で到着します。

小雨が降りしきる中、外宮へ向かって歩きました。豊受大神(ホツマツタヱではトヨケカミ)に初めてお会いできると思うと感無量でした。

以前、トヨケカミを祭る神社を参拝したことはあるのですが、スピリチュアル的にお会いできなかったのです。

外宮に到着すると、緑豊かな自然に癒されます。しとしと雨が降っていたので、森林の澄んだ空気に身も心も清々しくなりました。伊勢神宮にまだ参拝されていない方は、是非この豊かな自然を堪能して頂きたいと思います。

清々しい外宮の参道

伊勢神宮は授与所御正宮など撮影禁止の案内がある場所以外は撮影可能となっています。

手水舎を身を清めて、鳥居を二か所くぐると授与所に着きました。お守りと御朱印を頂いて先に進みます。

外宮の鳥居

他の参拝者の方々の後をついて、御正宮に向かって歩きます。

御正宮の前で起きたスピリチュアル体験

実は、トヨケカミの御正宮に参拝する前に人の居ない参道でひっそり大祓の祝詞を奏上しました。なぜ大祓の祝詞を奏上したかというと、理由があります。

以前、トヨケカミアマテルカミをお祭りする神社に参拝しましたが、御祭神はおられませんでした。

ただその場を守る眷属はおられて「ヲヲンカミ(=天照大神)の御前では大祓の祝詞を奏上するように」と仰ったのです。

ちなみにアマテルカミには過去に有鹿神社でお会いしていますが、ご本人は大祓の祝詞を奏上しなさいとは仰らないです。

私はなぜだろう?と思ったのですが、大祓の祝詞は通常の祓詞よりも雑念が取り除かれます。古代のアマカミ(=天皇)は「体のケガレは禊で払い、心のケガレはウタで払う」と仰いました。

眷属の方は、大祓の祝詞を奏上して「御前では身も心も清くしなさい」という意図だったのでしょう。

大祓の祝詞を奏上しているうちに、ただただトヨケカミに申し訳なくて、本当に申し訳なくて、ボロボロと泣き出してしまったのです。

トヨケカミの存在もよく知らなかったし、かつて荒んでいたホツマノクニ(今の関東地方)を豊かにしたのはトヨケカミであったこと、日本の総氏神様ということ、その他もろもろのことを今まで感謝もせず過ごしてきたこと、本当に申し訳なく思いました。

なぜこんな気持ちになったのか、それはトヨケカミスピリットに触れたからだと思います。

同時にもの凄いエネルギーを受けて、高波動当たりなのか、頭がぐわーんとして、体がジーンとしました。

トヨケカミに実際にお会いして分かったのですが、トヨケカミご自身の存在を主張しない方なのです。ちょっと説明が難しいのですが、私たちが想像する以上に、何倍も、いや何十倍も、とにかくびっくりするぐらい謙虚な方なのです。(ちなみにアマテルカミもとても謙虚な方です)

後で知ったことですが、西行法師さんも伊勢神宮を参拝して以下のウタを詠んでいます。

何事
なにごと
の おはしますをば しらねども かたじけなさに 
なみだ
こぼるる  ──『西行上人集』

「西行法師さん!私もまったく同じ気持ちでしたよ~!!」

御正宮の素晴らしさ

号泣が収まり改めて、御正宮の前で参拝させて頂きました。とにかく建物が素晴らしく、華美を抑えた質素なつくりなのです。

御正宮は撮影不可なので、参考までに別宮の風宮の写真を掲載します。

風宮

人によっては物足りないと思うかもしれませんが、ここに日本文化の素晴らしさが見て取れます。

カミヨの時代、指導者は必要以上に華美豪華なものは好まれませんでした。あくまでも公(おおやけ)を重視したからです。

質素な生活をしている民衆の前で豪華絢爛な建物を立てて、贅沢三昧している指導者がいたら、民はどう思うでしょうか?一歩間違えたら反乱になりそうですよね。

アマテルカミトヨケカミが本当に民のための政治をされていたということが窺い知れる建物でした。とても有難く、感動に浸りながら、トヨケカミの荒御魂をお祀りする別宮に向かいます。

トヨケカミが来て下さる

別宮に向かう途中に水辺があるのですが、なんとトヨケカミが来てくださったのです。

御祭神は龍雲鳳凰雲の姿で現れることもあるし、動物などで現れることがあります。以前にヤマトタケさんがシラサギとして現れると書いたのですが、なんと鳥のお姿でトヨケカミが来られました。

小雨がしとしと降る中、より一層神聖な雰囲気を醸し出していました。

鳥の姿で現れたトヨケカミ

「トヨケカミ来てくださったんですね。本当に嬉しいです。この国の発展に尽力して下さり、本当にありがとうございます。」

何度もお礼を伝えました。

トヨケカミとの出会いに深い感動を覚えて、外宮を後にしました。

外宮の木立

外宮を去る前に小雨も上がり、木立の合間から日が差していました。どこまでも歓迎して下さるトヨケカミなのでした。

別宮のお社もすべて参拝させていただき、心が洗われる神秘的な体験をさせていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございました!

ヲヲンカミに呼ばれました

皆さんこんにちは!前回クシヒコさん(=オオクニヌシノミコト)が祭られている大神神社に行きたい!というエピソードを書きましたが、今回はその続きです。

大神神社奈良県桜井市に鎮座する大和国一之宮神社です。

クシヒコさんに縁の神社なので、参拝に伺いたい気持ちはあるけれど、「先立つものが、、、」

と悩んでいたある日のこと。

玄関先に現れた幸運の虫

夫が玄関先に珍しい虫がいると呼びに来てくれました。

幸運の象徴:タマムシ

調べてみるとタマムシという虫でした。とても縁起の良い虫でタマムシを見ると臨時収入など金運に恵まれるそうです。

「臨時収入かぁー、入るといいけど、まさかね」っと思っていたその一か月後、

夫が「臨時収入が入った」と言いました。

しかも、いつもは臨時収入が入っても何らかの支払いで消えていたのに、今回は臨時収入の一部を使っても良いとお達しが出ました。私は「やったー!大神神社に行ける!」と大喜びしたのでした。

しかし、、、様々な諸事情から奈良に行けません。(涙)クシヒコさんは私の奈良行きを喜んで下さったのになんでー?と思ったのです。

暫くして、クシヒコさんの意図が分かりました。

「大神神社に参拝したいお気持ちは嬉しいです。では、まずヲヲンカミにご参拝ください」という意味だったのです。

よく考えればそれもそうなのです。そもそもクシヒコさんは臣下です。臣下に先に参拝するより、アマカミに先に参拝するのが筋です。クシヒコさんがおっしゃることはごもっともなのです。

アマテルカミは偉大な方ですが、その偉大な方を教え育てた方がトヨケカミです。そのため伊勢神宮の外宮にお祭りされているトヨケカミを先に参拝するようになっているのでしょう。

ヲヲンカミとは?

ヲヲンカミとはアマテルカミ(天照大神)のことです。クシヒコさんにとっては外祖父でもあるし、偉大なアマカミ(上古代の天皇)でもありました。

10代の頃のアマテルカミ

ヲヲンカミに縁の神社と言えば、伊勢神宮比沼麻奈井神社が真っ先に浮かびます。比沼麻奈井神社近辺(久治岳)でもヲヲンカミにお会いできそうですが(何といっても御陵がある場所なので)、今回は交通の便を考えて伊勢神宮にしました。

三重県伊勢市には伊勢神宮の他に、伊雑宮(イサワノミヤ)という神社があります。アマテルカミはアマカミに即位された後、富士山南麓のハラミノミヤにおられましたが、外祖父であるトヨケカミの遺言もあり、三重県の伊雑に宮を遷します。

長年イサワノミヤにおられたアマテルカミが、現在の伊勢神宮内宮の地に遷られたのは晩年になられてからでした。

伊勢とは本来夫婦という意味なのです。アマテルカミは晩年教育に力を入れ、夫婦の教え(=イセノミチ)、世継ぎ子得る教え、食養の教え、子どもの教育論など人々の指導にあたりました。

いかがでしょうか?現代にも通じる重要な教えではないでしょうか?アマテルカミのおられた時代から文明が発達し、生活水準は大幅に変わりました。しかし、根本的な人間の悩みは太古の昔からさほど変わらない気がします。

アマテルカミは人とは何であるか?人の真の幸せは何かを追及され、倫理、哲学、教育の分野でも多大な影響を及ぼしました。そのため、アマテルカミの治世に国が豊かになったのです。

伊勢神宮は日本の最高位の神社ですが、それはアマテルカミの立てた功績があまりにも大きかったからと言えるでしょう。

アマテルカミは尊敬する偉大な祖父トヨケカミが入寂された京都の久治岳で崩御されることを強く願われたため、久治岳の洞で入寂されました。肉体はありませんが、アマテルカミはスピリットな存在として今もおられます。

ヲヲンカミに呼ばれた理由

結果的に大神神社から伊勢神宮行きになりましたが、実はアマテルカミが伊勢に呼んで下さったと思っています。

臨時収入も予想外で、本当に天から頂いたという感じでした。

何故アマテルカミに呼ばれたのか思い当たるふしがありました。それは、当ブログでトヨケカミを紹介したことです。

もちろん、お妃のホノコヒメや皇太子オシホミミ様を紹介したことも喜んで下さったのですが、アマテルカミトヨケカミに対する思いは更に強いと感じました。

アマテルカミの偉大な師匠:トヨケカミ

トヨケカミ(=豊受大神)アマテルカミの外祖父でもあるし、日本人なら誰でも知っている有名氏族のご先祖様でもあります。諱(本名)タマキネというお名前で、イサナギ・イサナギ様を輩出した東北の名門タカミムスビ家第5代当主です。

トヨケカミ

東北・関東の地を立派に治めたので、ホツマキミ・ヒカシノキミ・トヨウケなどの称え名が与えられました。

トヨウケとは豊穣な食糧で人々の生活を豊かにしたという意味があります。

アマテルカミトヨケカミのことをブログで書くと本当に喜ばれます。それほど大好きな祖父であったし、アマテルカミの存在そのものに多大な影響を与えた師匠でもありました。

トヨケカミは孫であるアマテルカミにご自身の持てるあらゆる英知を授けます。

アマテルカミの喜ばれる姿を見るとホツマツタヱには真実が書かれていると実感します。(アマテルカミとは以前有鹿神社でお会いしています)

トヨケカミ比沼麻奈井神社に祭られますが、垂仁天皇の時代にヤマトヒメによって伊勢神宮の外宮に祭祀されます。

外削ぎ・内削ぎの重要な意味

伊勢神宮には外宮・内宮がありますが、外宮の千木(社の屋根から突き出ている木)は外削ぎ内宮の千木内削ぎになっています。これは男神・女神という意味ではありません。

外削ぎは、父母であれば、縦横ならば、柔硬ならばを意味します。反対に内削ぎは父母であれば、縦横ならば、柔硬ならばを意味します。

世の中を上手く収めるには白黒をはっきりさせる男性的な面も必要もあるし、時には国民に恵みを与える女性的な面も必要であるという意味が込められています。(池田満氏 ホツマ辞典参照)

これは子育てにおいても言えます。甘やかしすぎるとと我儘に育つし、厳しくしすぎると自信の無い子に育ってしまいます。世の中のルールであったり、物事の白黒はしっかり教えて、愛情を持って育てる柔軟さが必要です。

アマテルカミの時代にハタレの乱という全国的な騒乱が起きました。発端となったのが、ご自身の弟と妃でした。身内だからと言って、温情を与えては民が納得しません。指導者は罪を犯した者は厳しく処罰しなければなりません。

その一方で民に慈しみを与え、優秀な功績を立てたものには賛辞を送りました。アマテルカミの治世に国が豊かになったのも納得できます。

喜んで下さるアマテルカミ

伊勢行きがきまり切符の手配も済んだある日。

子供を自転車に乗せて送迎していたら、頭上に大きな鳳凰雲が現れました。(送迎中で撮影が出来なかったので、PhotoACさんからイメージを拝借)

びっくりして自転車でひっくり返りそうになりました。しかもその鳳凰雲の周りに無数の龍雲、鳳凰雲、飛んでいます。それはもうたくさん。

以前に私は鳳凰は皇位継承者を意味するとブログに書きました。とびきり大きい雲はアマテルカミ(天照大神)を意味します。もし皆さんが巨大な鳳凰雲を見たら、それはアマテルカミがお傍におられる。あなたを見守っているという意味になります。

アマテルカミが喜んでおられると思ったのですが、「どうしてこんなに喜んで下さるんだろう?」と不思議でした。

次回は伊勢神宮の参拝記を書こうと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!

ヤマトタケさんを偲ぶ古社:神奈川県 寒田神社

こんにちは!前回のヤマトタケさんの歴史を踏まえた上で、今日はヤマトタケさん縁の神社をご紹介します。

神奈川県足柄上郡に鎮座します寒田神社です。こちらの神社はいときょう氏著 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻を読んで知りました。

寒田神社はヤマトタケさんの東国遠征の際に立ち寄った場所です。西暦400年頃の創建された古社で、ヤマトタケさんが使用したのではないかとされる木製のお椀が残されています。(弥生時代後期の作)

御祭神倭建命弟橘比売命の二柱です。

ヤマトタケさんはホツマ国(関東)の国境に到着し、足柄の矢倉岳から小野にある反乱軍の要塞を視察します。小野の要塞には愛妻のヲトタチバナヒメがおられるので、ヤマトタケさんにとっては辛い遠征でした。

ヲトタチバナヒメ
矢倉岳の麓にある寒田神社

地図を見ると矢倉岳から寒田神社までは車で20分程です。

ヤマトタケさんはどんな思いで小野の要塞を見つめておられたでしょう。

矢倉岳から小野を視察するヤマトタケさん

寒田神社に呼んで下さったヤマトタケさん

ヤマトタケさんにお会いしたいと思っていたら、ヤマトタケさんに呼んでいただく機会が訪れました。早速、小田急線新松田駅を下車して、寒田神社に向かいます。

寒田神社新松田駅から徒歩10分くらいの場所にあります。

寒田神社の鳥居

早速鳥居をくぐって本殿に向かいます。かなり古くからある古社という雰囲気です。早速本殿に向かい祝詞を奏上してご挨拶をしました。

ヤマトタケさんは確かにおられたのですが、わずかに繋がれるという感じです。

あまりお元気ではないようで、ヤマトタケさんにとって、辛い思い出のある場所というのは間違いないようです。やはり愛妻のヲトタチバナヒメを失った悲しみや、御父上の景行天皇にお会いする前に亡くなられたのが心残りだったのでしょう。。。

それでも自己紹介をしてホツマツタヱを読んでいることや日本の発展に尽力して下さったことに感謝を述べると、とても喜んで下さったのです。

ちなみに、、、

ヲトタチバナヒメを小野の要塞から助け出すことはできたのですが、ヤマトタケさんが小野を制圧後、大磯から船で上総(千葉県)に向かう途中で嵐に会います。ヲトタチバナヒメは嵐を鎮めるために海に身を投げてしまいます。

嵐は無事に収まりますが、ヲトタチバナヒメは見つからず、流れ着いたヒメの帯と櫛を祭る社を二宮の地に建てます。(現在の吾妻神社)
海に身を投げたヲトタチバナヒメ

小野の要塞からようやく助け出したヒメを目の前で失ってしまいました。ヤマトタケさんはどれほど悲しまれたことでしょう。寒田神社の本殿の裏はかなり古くからあるであろう摂社末社が建っていました。

本殿の裏をぐるっと一周して、ご挨拶をしてその日は参拝を終えました。

2度目の参拝

それから暫くして、再度、寒田神社に参拝に伺いました。(ちなみにものすごく土砂降り)本来、雨の日の参拝は控えた方が良いのですが、その日しか都合がつかなかったので、お伺いすることにしました。

鳥居をくぐって本殿に向かうと、びっくりしました。なんと!ヤマトタケさんがもの凄くお元気なのです!!!(雨なのに)明らかに前回とオーラが違います。「今日はすごくお元気なんですね!!!嬉しいです!」とご挨拶だけして帰りました。

笑っておられたヤマトタケさん

普通は土砂降りの神社というと、なんだか近寄りがたい薄暗いイメージなのに、本殿がキラキラ輝いていました。

普段は日々の感謝を伝えたり、お願い事に来る参拝者を見慣れていると思うのですが、場違いなほど明るいオーラの参拝者が「ヤマトタケさん愛してます―!」と、(心の中で)叫んでいるので、ヤマトタケさんもさぞびっくりされたことでしょう。(;^_^A

ヤマトタケさんの象徴

ヤマトタケさんの象徴というかシンボルがあります。本当に不思議なのですが、シラサギです。ヤマトタケさんは東国を平定後、御父上の待つ奈良のマキムクの宮へ帰還される途中で亡くなってしまいます。

ヤマトタケさんはお墓に埋葬されるのですが、お墓から白い鳥が飛び立つのを多くの人が目撃します。そしてその白い鳥の羽は御所市富田と羽曳野市、古市で見つかります。お墓を開けてみると不思議な事に御遺体はありませんでした。

よほど心残りだったのか、白い鳥になって御父上の元に飛び立って行かれたのですね。。。

白鳥神社御祭神はヤマトタケさんなのです。

そして、本当にスピリチュアル的にシラサギで来られることがあります。シラサギは分かるのですが、なぜなのかは分かりません。

ヲトタチバナヒメの櫛と帯が流れたついた大磯の地はアオバトが水を飲みに来る場所と池田満氏の「ホツマで読むヤマトタケ物語」に記載されていたので、これと関係しているのかなとは思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

ご先祖様愛の強いヤマトタケさん

こんにちは!以前、ヤマトタケさんの記事を書くと宣言してから随分日が経ってしまったので、今日はヤマトタケさんについて書きたいと思います。

ヤマトタケさんとは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と呼ばれる方です。景行天皇(西暦298年即位)の御子でコウスノミコと呼ばれました。イミナ(本名)ハナヒコといいます。

ご先祖様愛と愛国心が強く、天皇の期待を一身に背負って日本各地の反乱軍を討伐します。東国のエミシ征伐を行ったため、関東各地でもヤマトタケさんに縁の名所がたくさんあります。

勇ましいヤマトタケさん

ヤマトタケさんは文武両道

ヤマトタケさんは武道に長けていただけではなく、ワカを読む風流な一面もありました。こちらはヤマトタケさんが東国遠征の際に詠んだウタです。

ヤマトタケさん東国遠征の際に詠んだウタ

ニニキネ様とは第10代アマカミで兄のホノアカリ様との二朝廷で政務をとられていました。しかし、ニニキネ様の功績が大きかったため、ニニキネ様の朝廷が本流になっていきます。

その背後には、度重なる都移しのご苦労があったのです。ニニキネ様のご苦労を労い、ご先祖様に感謝しましょうという意図で詠まれたウタなのです。

また、ヤマトタケさんはご自身をソサノヲさんの生まれ変わりと信じていたため、ソサノヲさんを祭る社を各地に建てます。

ヤマトタケさんは実在された方

幼い頃はヤマトタケの銅像を見て「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)という方か、きっと偉い人なんだな」と思ったのですが、具体的な功績は分かりませんでした。

亡骸が見つからなかったので、実在を疑う説もあります。ですが、私は神奈川県足柄上郡松田町に鎮座する寒田神社、神奈川県厚木市小野に鎮座する小野神社でヤマトタケさんに(スピリチュアル次元で)お会いしていますので、実在した方です。

ここまで読まれた方は、そもそも名前はヤマトタケルではないのか?と思われたかもしれません。実は、ホツマツタヱにヤマトタケと記載されているため、当ブログではヤマトタケさんとお呼びします。

御父上は長命のヲシロワケ(景行)天皇

ヤマトタケさんの父君は景行(ヲシロワケ)天皇です。とても長生きされた方で、ヤマトタケさんを授かったときの年齢はなんと84歳!崩御した年齢はなんと142歳!とされています。ヤマトタケさんの母君はハリマノイナヒヲイラツメです。(秘められた日本古代史ホツマツタヱ 松本善之助著 参考)

景行2年12月15日餅つきの臼のそばで餅花を作っている最中に産気づき、ヲウスミコ(兄)、コウスミコ(弟)双子の兄弟を出産します。

母君のハリマノイナヒヲイラツメ

景行天皇の皇子は55人姫26人合計81人であったとホツマツタヱにあります。

ホツマツタヱはこのヲシロワケ天皇の命により、オオタタネコさんによって編纂され、ヲシロワケ天皇に献上されました。この編纂の背景にはヤマトタケさんの強い思いがありました。

そもそも、東国と朝廷の諍いの原因は歴史の認識違いが生んだものでした。そのため、ヤマトタケさんは国書を早急に編纂を急がれたのです。しかし、志半ばでヤマトタケさんは早世してしまいます。

ヤマトタケさんの御意思はヲシロワケ天皇に受け継がれました。ホツマツタヱを語る上で、ヤマトタケさんは外せない方なのです。

ヤマトタケさんの活躍

九州に朝廷に従わないクマソという集団がいました。クマソは住民にも乱暴を働いたので、困った住民は征討軍の派遣を朝廷に頼みました。そして、当時94歳にもなっていたヲシロワケ天皇自ら九州へ出陣します。(なんともバイタリティ溢れる天皇ですね!)

天皇はウサ(宇佐)、ミケ川(豊前市、中津市周辺)タカハ(田川市周辺)の賊を次々に討伐します。無事に平定を終えた天皇は実に8年ぶりに奈良のマキムキの都(奈良県桜井市纒向)に戻ります。

そしてその15年後、再度クマソは朝廷に背きます。天皇は既に高齢のため、立派な青年に成長したヤマトタケさんに白羽の矢が立つのです。

命が下った二か月後、早くも現地に到着したヤマトタケさんはクマソの首領タケルが大宴会を催すことを聞きつけます。乙女の姿に変装したヤマトタケさんはを隠し持ち、大宴会に忍び込みます。

すっかり酔った首領タケルは女装したヤマトタケさんを朝廷軍の皇子とは知らずに、宴席に連れて行こうとします。頃合いを見計らってヤマトタケさんはタケルの胸を剣で刺します。

息も絶え絶えになったタケルは自分よりも更に勇猛なヤマトタケさんに驚き、臨終間際にも関わらず驚嘆します。そして「これからはヤマトタケとお名乗り下さい」と告げたのでした。

クマソを討ったヤマトタケさんはアナ(福山市)、キビ(岡山県)、カシハ(大阪市)一帯の賊も討伐します。

自分を誇らないヤマトタケさん

自ら敵の懐に単独で侵入し、身の危険を顧みず功績を上げたヤマトタケさんは「我こそがクマソを打ち取りました!」なんて言いません。「スヘラギ(天皇)のお陰でクマソを討伐できました」と報告します。(どこまでも謙虚な方です)

西国の混乱を収めた後は、東国へ

西国を無事に平定した後、今度は東国でエミシという集団が朝廷に背きます。ヤマトタケさんは「東国の平定は双子の兄のヲウスノミコが相応しいでしょう」と進言します。

しかし、兄のヲウスミコは怖がり、やむを得ずヤマトタケさんに命が下ります。

ヤマトタケさんの兄:ヲウスミコ

ヤマトタケさんのホツマ討ち

東国(今の関東地方)はホツマの国と呼ばれていました。上古代は平和であったホツマ国ですが、時代が下りエミシという朝廷に逆らう集団がはびこっていました。

東国へ出征することになったヤマトタケさんは叔母のヤマト姫に出陣の挨拶をし、ムラクモの剣ヒ・ミツのハラヒ(火・水の祓い)の巻物を授かります。このムラクモの剣はソサノヲさんが出雲でオロチ(悪党の集団)を討伐した際に得られた剣です。

ムラクモとは群がる暗雲の意味があり、ハタレなどの蛮族を征伐する際に使われてきた剣なのです。

ムラクモの剣ソサノヲさんから子孫へ受け継がれ、神武天皇に渡り、崇神天皇の時代にミツエシロ(斎王)へ受け継がれました。最終的に熱田神宮に奉納されます。

熱田神宮 (Photo AC 提供)

ヤマトタケさんにとって東国平定は断腸の思いでした。なぜかというと、東国にはヤマトタケさんの愛妻であるヲトタチバナ姫の実家(神奈川県厚木市小野周辺)があり、姫の実家も朝廷に反発していたからです。

愛妻の実家を攻めたくないヤマトタケさんは和平に持ち込みたい一心でした。しかし、ヲトタチバナ姫の親類縁者はヤマトタケさんを鹿狩りに誘い出し、あろうことか火を放ちます。(静岡県の焼津周辺とされる)

焼津の名称は反乱軍が野を焼いたことが由来

そこでヤマトタケさんはヤマト姫から授かったヒ・ミツのハラヒを唱えます。すると不思議と風が逆方向に吹いてヤマトタケさんは助かります。

抗戦の構えを見せる妻の実家を攻めなくてはならなくなりました。70日間に及ぶ火責めの準備を行い、妻の実家に火をかけます。いよいよ小野の要塞が陥落する間際に、ヤマトタケさんは再度ヒ・ミツのハラヒを唱えます。

富士山山頂のコノシロ池に住むというタツタノカミが現れて、小野の要塞に雨を降らせます。焼け落ちる要塞から何とか妻を助け出します。

コノシロ池に住むというタツタノカミ

ここまでがエミシ征伐の話となります。それ以降の話はまた別の機会にご紹介します。

次回はヤマトタケさん縁の神社について書こうと思います。最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:ホツマで読むヤマトタケ物語/ホツマ辞典 池田満氏著

クシヒコさんとの出会い、というか再会

こんにちは!今日はクシヒコさんとの出会い?(正しくは再会)について書こうと思います。

クシヒコさんとはこのブログで何度も紹介している大国主命(オオクニヌシノミコト)であり、ソサノヲ(素戔嗚尊)さんとアマテルカミ(天照大神)を両祖父に持つ方です。

オオクニヌシことクシヒコさん

クシヒコさんは私の産土神でもあります。神社との出会いは本当に不思議で、幼い頃両親に連れられて参拝した神社の御祭神がいずれもクシヒコさん、ソサノヲさん、ヤマトタケ(日本武尊)さんでした。

特にソサノヲさんとの出会いは毎回不思議で、道を歩いていて、たまたま見つけた神社の御祭神がソサノヲさんだったことが多々あります。

また、ある神社に参拝に行こうと思っても、その神社が見つからず、なぜかソサノヲさんの神社に辿り着いてしまったことも。

こんなエピソードもあります。人間関係に悩んでいた頃、あてもなく電車に乗ったのが大晦日の夜でした。当時は大晦日は終夜電車が走っていました。

終点まで乗っていたら、群馬県の高崎駅まで来てしまい、大晦日なので神社を探しました。スマホは所持していませんでしたが、駅前の地図で確認すれば、高崎駅付近の神社に行けたはずなのです。

しかし、悩みを抱えていた私は案内板を確認する余裕が無く、国道354をひたすら歩きていました。参拝者らしい人に付近の神社を尋ねたところ、「進雄神社が近いですよ」と教えて貰いました。

これもご縁だと思い、進雄神社に行くことにしました。御祭神はソサノヲさんと奥様の稲田姫命です。

進雄神社 (PhotoAC提供)

ソサノヲさんはまだ私が御祭神のことが良く分からない時から、精神的な支えになって下さっていました。

大分話がそれてしまったのですが、江島神社で市杵島姫命ホツマツタヱではオキツシマヒメ=タケコヒメ)にお会いしてから、御祭神のことが詳しく書かれている文献を探していました。

御祭神が教えてくれた意外な人物

そんなある日、寒川神社を参拝した折に、眷属から『徐福の本を調べてみよ』と言われたのです。

『えっ徐福…って誰ですか?』

徐福 (PhotoAC提供)

どこかで見た名前だけど、どこだっけ?と考えていたら、

7年くらい前に静岡県の北口本宮浅間神社に参拝した際に、徐福さんの銅像があったことを思い出しました。

確か、秦の始皇帝の命令で不老不死の薬を求めて日本に来られた方だったと思うのですが、

『なんで、徐福さんなんだ???』と思いながら、徐福さんの関連書籍をネットで探してみました。

しかし、上古代の本は真偽が問われることもあり、入手困難だったので、図書館を当たってみました。

気になる本を幾つか見つけたのですが、あいにく近所の図書館には無く、遠方の図書館で予約して受取りにいったものの、閉館日でがっかりしたのです。(閉館日がネットで公開されていませんでした。)

失意のまま自転車を走らせていると、

突然『その本に真実は書かれていない。』と言われたのです。

『えっ!誰?』

うーん、今の声はなんだったんだろう、江島神社で御祭神につけて頂いた龍神様かな?

と思っていたら、数メートル先に小さな神社が見えたのです。

来るときは反対側を走っていたので、気づかなかったのですが、

『もしかして、こちらの神社の神様が話しかけてくれたのかな?』と思って

ご挨拶&参拝しました。御祭神を見ると大国主命と書いてあります。

小さなお社にもおられる御祭神

私がびっくりしたのは、こんな小さなお社なのにきちんと御祭神がおられるのです。

でも、その理由はお社を見て分かりました。境内の手入れが行き届いており、お花にも丁寧に水が撒かれていました。

手水舎は自動で水が出るシステム、お賽銭箱には監視カメラ、お社の中も照明が灯されており、細部まで参拝者への配慮が施されているのです。

御祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)と書かれています。

とても優しそうで穏やかな雰囲気です。

その時は、大国主命様がどのような方なのか分かっていませんでした。

『真実かどうかは実際に本を読んでから判断しよう』と思い、数日後徐福さんの本を借りてきました。

読んでみると、内容はたいへん面白く、興味深いのですが『確かにこれは違うなぁ』と思ったのです。

しかし、全く収穫が無かったわけではありませんでした。

徐福さんの本を読み、竹内文書富士古文書などの古文献があることが分かったのです。そして、色んな古文献を調べるうちにホツマツタヱに辿り着きました。

同時期に起きた不思議なこと

同じ時期に神社や上古代の本ではないのですが、ある中古本を買いました。早速本を開いてみると、本の間に『大神神社』のパンフレットが挟まっていました。

『大神神社、、、聞いたことがあるようなないような、、、奈良県桜井市、なんで大神神社なんだろう?、、、この神社に呼ばれているのかも知れないけど、理由が分からない』と不思議に思っていました。

大神神社の鳥居(PhotoAC提供)

そのうち参拝することもあるかも知れないと、大神神社のパンフレットを取っておくことにしました。

大神神社の御祭神

ホツマツタヱを読んでびっくりしたのが、大国主命(オオクニヌシノミコト)二代目オホモノヌシクシヒコさんという方で、奈良県桜井市の三輪山でお亡くなりになったと書かれていたのです。そのため、三輪山の麓にある大神神社御祭神クシヒコさんなのです。

余談ですが、オホモノヌシとはアマカミ(古代の天皇)の右の臣の役職で司法権や治安を維持する役目がありました。

クシヒコさんはアマテルカミから右の臣の奥義を心得たので、イサナギ・イサナミ両神からサカホコの剣授かりました。

更に衝撃的だったのが、私の初宮参りや七五三で参拝した神社の御祭神もクシヒコさんだったのです。

神社や御祭神のことがあまり良く分からなかったとはいえ、幼いころから守って頂いた御恩を感謝するまでに相当時間が掛かってしまったことをクシヒコさんに本当に申し訳ないと思ったのです。

いざ、大神神社へ?

さて、そんなクシヒコさんにお会いしたいと思っており、大神神社に参拝に行こうと思ったのですが、実は意外な展開になったのです。

そのことはまた別の機会に書こうと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました!

寒川神社の御祭神が教えてくれたこと

皆さん、こんにちは!神奈川県は高座郡寒川町に鎮座する寒川神社の御祭神について書きたいと思います。

その前に、読者の皆様に御礼を申し上げます。先日、タケミナカタさんの諏訪神社に参拝したところ、タケミナカタさんがとても喜ばれておられたのです。なんと!当ブログを読まれた方が、諏訪大社・諏訪神社に参拝に来られたとのことでした。

ご参拝くださった方々に改めて感謝申し上げます!こうしてブログに書くことで、神社に足を運ぶ方が増え、御祭神、そしてブログ運営にあたる私が幸せに感じ、感謝と愛の循環が起こることは何よりも嬉しいことです。ありがとうございます!

しかも!まだ当ブログでご紹介していないタケミカヅチさんよりも同様に、読者の方が参拝者が来られたと伺っております。

本当にありがとうございます!

寒川神社の参拝きっかけ

寒川神社は相模国一之宮社であり、八方除けで霊験あらかたな神社で、東京出身の私も名前を聞いたことがある神社でした。主人の両親が崇敬しており、毎年正月には混雑を避けて、中旬ごろに参拝していると聞いていました。(正月三箇日の参拝者数は、なんと!50万人にものぼるのだとか。)

神奈川に嫁にきた者として、ご挨拶に伺わねばと思っていた矢先に寒川神社の御祭神が呼んで下さいました。

すっきりした寒川神社の境内

有鹿神社の記事でも紹介しましたが、寒川神社の御祭神は寒川比古命、寒川比女命です。

初めて参拝した時『こんなにすっきりした神社は初めて見た』と思ったのです。八方除けに霊験あらかたなせいか『魔を寄せ付けません』という雰囲気なのです。

寒川神社の凄い所は御祈祷の依頼数全国一を誇ります。私が参拝した神社では、土日祝日には昇殿参拝者の姿を見かけますが、平日に御祈祷を依頼する人はまばらでした。

しかし、寒川神社は違います。年間を通じて、朝から夕方までひっきりなしに祈祷を行っている神社なのです。

寒川神社を描写するならば、荘厳かつ華麗由緒正しい、霊験あらかたな神社という形容が相応しいでしょう。立派な境内には神嶽山神苑というお庭まであり、御苑さながらの風情です。

雄大な敷地を誇る鎮守の杜には、龍神様が心地よさそうに泳いでいます。上空には鳳凰様も優雅に飛んでおられました。なのでこちらは皇位継承者に縁の神社ということですね。

神嶽山神苑は御祈祷すると見学できる

寒川神社の御祭神

初めて、寒川神社に参拝した当時は、日本の神社の祭神は渡来系、ユダヤ系、秦氏であるという歴史書や文献を読んでいたので、

『果たして、本当にそうなのかな?』と考えていたのです。

そんな私の心を読まれたのか、寒川神社の御祭神は『昔から(日本の地に)住んでおる』と仰ったのです。つまり『純日本人』という訳です。(昔は日本という国名ではなかったのですが)

何十万年前に様々な地域から日本列島にやってきた人はいると思うのですが、少なくとも上古代において外国からやってきた人ではないという意味ですね。

『そうなんだ~。』とびっくりしたのです。

子どもに目をかけてくださる御祭神

寒川神社の御祭神は、寒川神社に暫く足が遠のくと呼んで下さいます。先日も呼んで下さり、喜んで家族で参拝しました。てっきり私が呼ばれたのかなと密かに喜んでいたら、境内で撮影した家族写真を見返すと、息子の周りにだけ光の玉や虹が写っていました。

『呼ばれたのは息子だったのか。』と思ったのです。ソサノヲ(素戔嗚尊)さんもそうですが、本当に神社の御祭神は子どもを大切に思ってくださいます。

寒川神社の神様(本当は人なのですが)は定期的に『息子はどうしておる?』『息子の参拝に来るがよい』と声をかけてくださるのです。

寒川神社の御由緒は神亀4年(727年)には社殿が建立されたという説があります。

更に、ソサノヲ(素戔嗚尊)さんを慕っていたヤマトタケ(日本武尊)さんが寒川の地にソサノヲさんを祭る社を建て、後年寒川神社となった説があります。参考図書:ホツマで読むヤマトタケ(日本武尊)物語 池田満氏:著書より

しかし、寒川神社の御祭神はソサノヲさんではありません寒川比古命、寒川比女命の名前はどの歴史書にも名前が出てこないのです。

そんなある日、いときょうさんの著書 古代史ホツマツタヱの旅 第3巻を読んでいたら、寒川神社の祭神はウビチニ・スビチニ様ではないかという記述を見つけたのです。

ウビチニ・スビチニ様

ウビチニ・スビチニ様とは第四代アマカミ(上古代の天皇を指す)になられた方です。ウビチニ・スビチニ様の時代に結婚の形が生まれました。

ウビチニ・スビチニ様
ウビチニが桃の木を植え、三年経過したころスビチニと結婚しました。桃の花が満開の時でしたので、お二人はモモヒナギ・モモヒナミと呼ばれました。旧暦三月三日に結婚の儀が執り行われました。

日暮れ近くでしたので、空には月が出ていました。桃の木の下で白酒が酌み交わされました。(古代史ホツマツタヱの旅 第4巻 いときょう氏著より)

寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様であれば、寒川神社の上空に鳳凰様が飛んでおられたのも納得できます。スビチニ様はわが国で初めて日本酒を発見された方でもあります。

寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様だという根拠がもう一つあります。

寒川神社の御祭神はお酒好き?

ある時、寒川神社の眷属が『こちらの御祭神はお酒が好きで、お酒をお供えすると大変お喜びになる』と教えてくれたのです。

もし寒川神社の御祭神がウビチニ・スビチニ様であれば、きっと桃のお酒を喜ばれるのでは?と思い、桃のお酒をお供えしたのです。

いつも寒川神社で参拝すると拝殿にはサワサワと優しい風が吹くのですが、その日はザワザワ、ゴーと強い風が吹いたのです。

そこで私は『あのう、もしかしてウビチニ・スビチニ様ですか?』と聞いたのです。そしたら『そうだ』とお返事されたのです。

『やっぱりそうだったんですね!?』と嬉しくなりました。

寒川神社の神宮大麻

もう一つ寒川神社のエピソードがあります。実は、当ブログである日神宮大麻を購入したら、善なるエネルギー体を連れて帰ったというエピソードを書いたのですが、実は寒川神社の神宮大麻だったのです。

当初はどの神社で神宮大麻を購入しよう決めかねていたのですが、寒川神社の御祭神に呼んでいただいたので、寒川神社で神宮大麻を購入しました。

神宮大麻を購入した後で、夫が運転する車の中で眠るこけ、神宮大麻と共に善なるエネルギー体を連れて帰り、そのエネルギー体の方が我が家の神棚に鎮座されています。

寒川神社のエピソードはまだまだあります。

ある日私は、この世の多くの人のためになるようなお願いごとをしました。いつもはお願いごとをしてもお返事を頂けないことが多いのですが、その時は『そなたの願い、叶えられたし』と御祭神が仰ったのです。

『そなたの願いをかなえてあげよう』ではなく『そなたの願いは自然と叶うであろう』と仰ったのです。

このように、参拝者に目をかけてくださる寒川神社の御祭神は本当に愛ある方なのです。モモヒナギ・モモヒナミ様にお会いできる素敵な神社に是非訪れてみてください。

その他にも寒川神社のエピソードは沢山ありますので、また別の機会にブログでご紹介できればと思っております。

最後までお読みいただきありがとうございました!

箱根山上空に現れた鳳凰:オシホミミ様

こんにちは、今日は神奈川県箱根に鎮座する箱根神社について書きたいと思います。江島神社と並ぶほど神奈川では有名な箱根神社、箱根山一帯は強力なパワースポットでもあります。それもそのはずで、箱根にはこの国の発展に尽力された、とても尊い、凄い方が眠りについておられたのです。

美しい朱塗りの箱根神社

箱根神社の由緒を見ると、第五代孝昭天皇の時代に聖占仙人が箱根山の駒ヶ岳に神仙宮を開き、同主峰の神山神体山としてお祀りされたとあります。

御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。

瓊瓊杵尊とはホツマツタヱで言うところの、ニニキネ様を指し、アマテルカミ(天照大神)のお孫さんにあたる方です。奥様のコノハナサクヤヒメ(アツシヒメ)は、静岡県三島を本拠地とした四代目ヤマスミのカグヤマさん江島神社の御祭神エノシマカミであるタキコヒメとの間に生まれた方です。

タキコヒメがアマテルカミの娘なので、コノハナサクヤヒメニニキネ様と同様にアマテルカミの孫になります。

アツシヒメニニキネ様との間にムメヒト様、サクラギ様、ウツキネ様の三つ子の男の子を授かります。三男のウツキネ様ホオデミと呼ばれました。つまり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)とはホオデミ様のことです。親子・夫婦で仲良く祀られています。

箱根神社は開運厄除・心願成就・交通安全・縁結びに御神徳の高い神社と言われています。箱根山全体が強力なパワースポットなので、開運したい方におすすめの神社です。

心が洗われるような杉の正参道

箱根山のみどころ

箱根神社の他にも、芦ノ湖の守護神・九頭龍大神を祀る九頭龍神社も霊験あらたかな神社です。九頭龍神社は箱根園・ホテルザ・プリンス箱根芦ノ湖から徒歩30分の場所にあります。ホテル ザ・プリンス箱根芦ノ湖のレンタサイクルも利用できます。(有料)

芦ノ湖畔に鎮座する九頭龍神社

箱根神社の神体山である「神山」を拝する箱根元宮も鎮座しており、箱根駒ヶ岳ロープウェーで山頂に上るとお参りできます。箱根神社、九頭龍神社、箱根元宮をすべて参拝する三社参りを行うと、より御加護を頂けます。

御祭神にあいさつ

箱根神社には夫と何度も足を運びました。御祭神の瓊瓊杵尊様は天孫降臨で有名な方で、九州の高千穂の地でお亡くなりになりました。

九頭龍様のありがたい手水舎

九頭龍様の手水舎で身を清めて、御祭神に挨拶に伺いました。、、が、御祭神がおられない!というか繋がれませんでした。『うーん、なんでだろう』と首をかしげて、今度は芦ノ湖の九頭龍神社に向かいました。

九頭龍神社でも御祭神とは繋がれませんでした。『えーなんで???』という感じだったのです。

九頭龍神社は龍神様がおられる神社で有名なのですが、龍神様にもお会いできませんでした。龍神様の数で言えば、圧倒的に江島神社の方が多いのです。『なぜ、龍神様で有名なんだろう???』と、ここでもハテナマークが浮かんだのでした。

箱根ロープウェイで大涌谷へ

箱根一帯は見どころが沢山あり、一日で全てまわるのは大変です。そのため、観光しきれなかった名所は日を改めて訪れていました。

ある日、芦ノ湖の海賊船で箱根町港から桃源台港まで行き、箱根ロープウェイ大涌谷へ行く旅程を組みました。大涌谷は約3,000年前の噴火によって神山が崩壊して出来た箱根有数の観光名所です。現在も大涌谷一帯は硫化水素を含む噴煙が立ちのぼっています。

圧巻の景色の大涌谷

大涌谷を見学していたら、なんと龍神様がおられました。『なんだ~ここにおられたのか~。』と納得したのです。『なんで山の上なんだろう?』と不思議に思いました。

そして、箱根山一帯の景色に見とれていたら、なんと、鳳凰雲が現れたのです。

写真真ん中あたりに見える横向きの鳳凰雲

急いでシャッターを切りましたが、雲が風で流れてしまい原型をとどめておりませんが、はっきり鳳凰雲が現れたのです。『あれ?龍神様だけではなく、鳳凰様がおられた~。』と感激したのです。

鳳凰雲が意味するものとは

鳳凰雲を説明する前に、鳳凰について説明します。

鳳凰は「おめでたい事が起こる前兆」と言い伝えが有り、羽のある生物の王とされています。

古代より「徳の高い君子が位に就く時に現れる」と伝えられ、中国における宮中行事において用いられてきました。
株式会社メイクワンサイトより引用

次に、鳳凰雲を説明します。鳳凰雲とは鳳凰の形をした雲です。鳳凰雲を見かけたら、スピリチュアル的に運気アップのサイン願いごとがもうすぐ叶うなど、幸運の兆しを意味します。

実は、もう一つ重要な意味があります。それは、王族(日本で言えば皇族ですね)に縁の方がすぐ傍におられる王族・皇族に縁の方があなたを見守っておられるという意味になります。

さて、鳳凰雲の他にも龍神雲も有名ですよね。龍神雲、または龍雲と呼ばれ、龍神様の形をした雲です。龍神雲を見た場合も人生の転機金運の上昇、運気アップのサインです。

龍神様の形をした龍雲

実は龍雲にも別の意味があります。それは鳳凰雲と同じく、王族(皇族)に繋がる方がすぐ傍におられる、あなたを見守っているという意味になります。

そして、龍雲と鳳凰雲はいずれも王族(皇族)に縁の方を表しますが、鳳凰雲は特に皇位継承者を意味します。つまり、箱根山山頂付近で鳳凰雲を見たということは、皇族、しかも皇位継承者がすぐ傍におられるという意味なのです。

私はてっきりこの鳳凰雲ニニキネ様だと思っていたのですが、松本善之助氏の秘められた日本古代史(続)ホツマツタヱを読んで衝撃を受けました。実は箱根山に葬られた方はオシホミミ様だったのです。

アメノオシホミミ様

まず、オシホミミ様とは誰なのか説明します。オシホミミ様とはアマテルカミ(天照大神)正姤ホノコヒメ(瀬織津姫)との間に生まれた皇太子なのです。

あめのしずくトップの画像はオシホミミ様です

実は当ブログトップページの画像はオシホミミ様です。オシホミミ様第九代アマカミになられた方で、イミナオシヒト様といいます。母のホノコさんが早くに亡くなられたため、琵琶湖のほとりの野洲で叔母のワカヒメ様とオモイカネさんご夫婦に育てられます。

そして、第七代タカミムスビタカギさんからアメノミチトノヲシテ(建国理念)に基づくミチ)を学びます。そして、タカギさんの娘のタクハタチチヒメを妃に迎えます。

オシホミミ様は伊勢神宮外宮に近い上御井神社あたりでお生まれになりました。第九代アマカミに就任後は東北のヒタカミに宮を遷します。そして、テルヒコ(ホノアカリ)様・キヨヒト(ニニキネ)様のお二人が産まれます。

オシホミミ様の終焉の地は箱根山でした。そのため、箱根山の神山は禁足地であったのです。箱根山は活火山であり、現在も登山道は立ち入り禁止区域となっています。

父のアマテルカミより先に亡くなられたオシホミミ様は箱根の地で眠りについておられます。神山が禁足地なのも、静かにこの地を見守り続けたいというオシホミミ様の御意思なのでしょう。

大涌谷を散策していた時に一箇所気になる場所がありました。ふと、誰かが見守っているような気配を感じたのです。くるっと振り返ると立ち入り禁止区域でした。

後日、Google mapを確認したら、私が気になった場所は神山に通じる道でした。きっとオシホミミ様が呼んでくださったのだと思うのです。御祭神は神山におられたのです。

オシホミミ様の優しい愛を感じられる箱根山にぜひ訪れてみてください!最後までお読みいただきありがとうございました!

参考図書:池田満氏 ホツマ辞典

ホツマツタヱの豊受大神、天照大神

こんにちは、ホツマツタヱに書かれているトヨケカミ(豊受大神)、アマテルカミ(天照大神)について書いてみようと思います。

ホツマツタヱでは天照大神はアマテルカミ、豊受大神はトヨケカミと呼ばれ、いずれも男性です。

アマテルカミは当ブログで度々紹介していますが、伊勢神宮外宮に祀られているトヨケカミとは一体どんな方なのでしょうか?

豊受大神とは

トヨケカミはタノミコトの子孫

トヨケカミ

初代アマカミクニトコタチ(古代の日本の創始者)にはト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メという八人のお子様たちがおられました。それぞれトノミコト、ホノミコトのように呼ばれ、木の実の栽培方法や住居の建て方など人々に教えるために全国に派遣されました。

東北地方に派遣された方がタノミコトです。タノミコトの子孫が代々タカミムスビを名乗って東北地方に繁栄しました。

第五代タカミムスビになられた方がトヨケカミです。この方はとても優れた方で、気候の変化で農作物の減収が減った際に、初代クニトコタチの精神に立ち返り、社会を立て直しました。

この功績から、トヨケカミヒカシノキミとしてオホナメヱ(大嘗祭)を執り行うことが認められました。(池田満氏 ホツマ辞典より)そして、同じくタカミムスビ家出身のアメカガミカミの曽孫であるイサナギ様と自身の娘のイサナミ様を結婚させて、第七代アマカミとしました。

トヨケカミが立てた功績は多岐に渡り、祭祀する神体系を整理して、人々の心をひとつにするように努めました。トヨケカミはまつりごとの達人であり、秀でた教育家でもありました。

その他にも、乗馬法、産医学、金属錬金技術、天地開闢の捉え方、死生観、年中行事を通して民を大切に教育されたのです。

池田満氏 ホツマ辞典の系図を見ると、トヨケカミ藤原氏、忌部氏、物部氏、三輪氏といった著名な氏族の先祖にあたります。

天照大神とは?

アマテルカミは第七代アマカミ イサナギ・イサナミ様の間に生まれた方です。トヨケカミがアメ(創造神のこと)に八千回も祈願されて誕生されました。イミナをワカヒト様といいます。

アマテルカミはあらゆる知識を有していたトヨケカミから直々に教えを受け、優れた指導者に成長されました。アマテルカミは残した業績は多岐に渡ります。代表的なものを以下に列挙します。

  • 全国をブロックに分け、それぞれに勅命治政官を任じた。
  • 刑法では数量的に罪を料るサガを教えるミチ(教え)を制定した。
  • 教育・倫理・哲学の面にも多大な影響を及ぼした。
  • 人の真実の幸せを希求し、善を勧めることを眼目とした。
  • 人とは何なのか哲学的な洞察を深めた。

また、夫婦のミチであるイセノミチ、世継ぎを得るためのヨツギノミチ、長命を保つための食養のミチ、子どもを育てるための教育論なども纏められました。

アマテルカミの治世で人々の生活は豊かになり、人々はアマテルカミを慕いました。アマテルカミは功績を立てた人に褒め名をしるした文書(ヲシテ)を下賜されたのです。アマテルカミは褒め上手でもありました。

ここまでお読みいただくと、アマテルカミもトヨケカミも、素晴らしい指導者であったことが分かります。太古の昔から、民衆に慕われ崇拝されていたことでしょう。

天照大神と豊受大神が女性である理由

一般的に天照大神と豊受大神は女性とされています。なぜ、女性神なのかは諸説あります。

説1:推古天皇を正当化するため

近年において、ホツマツタヱを発見された松本善之助氏推古天皇を正当化するため、蘇我馬子聖徳太子アマテルカミを女性に作為して国史を書き換えたと述べています。

私はこの説は根拠として、少し弱いのかなと思いました。なぜかというと、推古天皇以前に神功皇后がおられたからです。

神功皇后は天皇ではありませんでしたが、夫である仲哀天皇の九州熊襲征伐に随伴し、志半ばで崩御となった夫の意思を継いで、熊襲征伐を達成します。それどころか、海を越えて新羅へ攻め込み、百済、高麗まで服従させています。

それだけ神功皇后に家臣を納得させる政治的手腕があったのでしょう。そして、夫の遺児である誉田別尊(後の応神天皇)を出産し、幼い皇子が即位するまで政事を執り行うなど、実質天皇のような存在でした。

神功皇后を前例とすれば、推古天皇を女帝にするのはさほど困難ではないと思います。

説2:持統天皇を正当化させるため

また、持統天皇が天皇に即位することを正当化させるためにアマテルカミを女性にしたという説があります。私はこれも根拠としては弱いと思います。なぜかと言えば、既に推古天皇がおられたので、アマテルカミ女性にする必要がありません。

それに、説1と説2ではアマテルカミが女性にされた根拠にはなりますが、トヨケカミまで女性にされた理由を説明できません。

説3:仏教を推し進めたかったから

これは私の考えですが、仏教を推し進めたい人たちが存在し『仏教は素晴らしんだ!』と民衆に納得させるために、古くから崇拝対象とされていたアマテルカミトヨケカミをあえて女性にしたのではないかと思います。

ホツマツタヱをお読みいただければ、アマテルカミトヨケカミが素晴らしい人物であったことは明白であり、はるか昔から崇拝の対象とされていたと容易に想像できます。

たとえ、仏教を取り入れても、人々はアマテルカミトヨケカミを崇拝し続けるでしょう。

そのため、重要であったアマテルカミトヨケカミ重要でない人に見せるために、女性にしたとは考えられないでしょうか?現代は女性も政治の場で活躍する時代ですが、はるか昔においては、まつりごとは男性が行うものでした。

いくら偉大な指導者であっても、女性であったならば、男性よりも重要感が薄れる感は否めないのではないでしょうか。

諸説読みながら、ふとそんな考えが浮かんだのです。皆さんはどう思われるでしょうか?

人々を幸せにしたくて様々なミチを説いてきたトヨケカミアマテルカミ。そのミチヲシテ文献(は時代と共に忘れ去られていきました。そんなホツマツタヱが昭和41年松本善之助氏によって発見されたのです。

ヲシテ文献では、古語辞典にも載っていない難解な言葉があるにも関わらず、松本善之助氏や池田満氏などのご苦労のお陰で、こうして上古代のアマカミたちについて記された貴重な文献に触れることができるのが本当に有難いことです。

こうして、ホツマツタヱが発見された背後に、アマテルカミオオクニヌシ クシヒコさんの強い意志や願いを感じてなりません。

ホツマツタヱを読んでから変わったこと

ホツマツタヱが偽書ではなく、本物であると思う根拠があります。ホツマツタヱを読む前と読んだ後で、明らかに御祭神の歓迎ぶりが変わったのです。不思議な出来事も沢山起こるようになりました。

また、神社参拝中になぜか沢山鳥が飛んでくるようになりました。以前は鎮守の森にカラスが雀が数羽いるのを見かけるくらいだったのですが、5~6羽、ある時は10羽近く飛んで来たこともありました。

このブログを書くきっかけとなった神奈川県江ノ島に鎮座する江島神社は海にかかる長い橋を渡って神社に向かいます。ある日『ホツマツタヱを読み始めました。』と江島神社の御祭神にお伝えした帰りに、橋の両手すりに沢山のカラスが止まっていたのです。

沢山のカラスが橋に止まっていた

江島神社には何回も参拝していたのに、こんな出来事は初めてでした。また、コノハナサクヤヒメをお祀りする浅間神社の拝殿で祝詞を奏上していたら、カラスや鳩、雀、オナガなど何種類もの鳥がバサバサっと7~8羽ぐらい飛んで来たのです。

こんなエピソードも、ホツマツタヱを本物と信じてる方の励みになればと思いながら書いています。ホツマツタヱを読むと上古代の人々の温かい心が伝わり、幸せな気持ちになります。

多くの方々にホツマツタヱに触れて頂きたいなと思います。

今日はアマテルカミとトヨケカミについて考察を深めてみました。最後までお読みいただきありがとうございました。